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暑い日の日記は物悲しいということに気づいた。夏が思いやられる。

夜に小竹向原で芝居をみることになっていて、埼京線が混むのが嫌なので早めに出て散歩することにする。

着いたのが16:00で、小竹向原駅の出口は階段を登っている途中、青空しか見えない。出てみるととても散歩できるような日差しではなかったので、駅すぐ近くのカフェに入る。そこで散歩できるようになるまで待つ。

18:00まで本を読んで、19:30の開演まで歩く。
小竹向原は僕の生まれ故郷で、小学校1年生の夏まで住んでいた。
小竹向原で観劇するときはいつも、そのとき住んでいたアパートを基点にして坂を降り、大きな公園と、それに隣接する、少しだけ通っていた小学校の前を歩く、散歩をする。

小さい頃のことで、小さい頃の足だったので、自分がはっきりと思い出を持っている場所は、そのアパートと、公園と、その近くにある友達のマンションと、通学班の待ち合わせ場所の小さい坂、環七のびっくりドンキー、OKストア、小学校くらいで、その小学校も建て替えの最中に引っ越して新しい校舎には見覚えがない。
そのほかにも記憶の場所があるが、車や親の自転車に乗ってのことだったので、その場所に行く術を知らない。
それでも僕は、思い出というものが好きなので、その少ない場所を歩くだけでも、いつまでも飽きることがない。

あのまま、東京に残っていたらどうなっていたのか、よく考える。
小竹向原の公立小学校の担任は、50歳くらいの女の先生で、おかっぱ頭にアロハシャツのようなものを着ていた。女の子や男の子のものを隠したりして遊んでいると、怒られて、廊下に立たされた。一緒に立たされた子が泣いていたのを覚えている。海藻サラダを、少なめに盛ることを許されなかった。
塾に行っている子の計算が早くて、僕は真ん中より少し下くらいで、いつまで経ってもできない子もいた。というのは、授業参観の母親から聞いた話。
僕が転校した後にあの学校で学級崩壊が起きて、担任がロッカーに閉じ込められたと聞いた。
小竹向原では流石に小学校受験などはあまりしていなかっただろうが、幼稚園から公文に通っている人はいた。副都心線が横浜中華街まで直通になる前でも、この駅の周りの住宅街は、中流家庭よりもやや裕福な家庭が多くて、習い事をしている子は多かった。同じレゴの習い事をしていた子は、開成中学、高校に進学した。普通に考えて僕も中学受験をしていたことになると思うが、その場合どうなっていたのだろうか。

山形の一直線の、単純な受験コースを思い、また何度も妄想するように、高校現役時代からきちんと受験勉強をしていた場合のことを考える。
演劇を勉強の逃げ道に、勉強を演劇の逃げ道にしておいて、クーラーの効いた部屋のソファに寝て、ポテチとさけるチーズを食べ、安楽に、ニコニコ動画を見ていた。
あの頃は私立医学部という選択肢を知らなかったので、東京に出るには医科歯科に受かるしかないと思い、それはもはやできないことだと、不貞腐れていた。



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