私だって恋がしたい ~脳性麻痺の女の子のラブストーリー~  第二章 初恋

 制服のカッターシャツのボタンを、ひとつまたひとつ外していくごわごわした男の手。
胸襟を開いた先に現れた沙織の16歳の肌は、同じ歳頃の乙女たちの中でも一際艶々と輝いていると言っても過言ではなかった。
その陶磁器のような輝きに置かれた男のくたびれた手の甲はいかにも不似合いで、だからこそ、それをモチーフにした一幅の美術作品のようにも見えた。


 目の大きな美しい少女に育った支援学校高等部の女生徒の沙織の衣服を今剥ぎ取ろうとしている男は病虚弱児学級中等部で担任を勤めた教師だった。
在学中より彼女の美貌を眩しいものに感じてきた谷口は、女子高生となった沙織を呼び出し、彼女を全く知らなかった世界へ連れ込んだのだった。

 「先生、本当に私で・・・」と

 言おうとした沙織の唇を、その台詞の半ばで谷口の煙草くさい唇がふさいだ。
ホテルの部屋の有線のチャンネルは谷口によって一〇代の女性アイドルたちの歌う、軽快な音楽が続くものに設定されていた。
その中には女子高生が教師をくすぐるような、からかうような挑発的な歌もあった。

 沙織はラブホテルというところに足を踏み入れたこと自体がもちろん初めてであったので、枕元の有線チャンネルが多くの選択肢を持っていることも知らなかった。
谷口がそのような歌を好んで選んでいるという性癖についても思いを巡らせる余裕はなかった。

 独身のまま四〇代を迎えた谷口は二〇年近くに及ぶ中学高校の教員生活の中でずっと十代の少年少女たちを見つめてきた。
若い世代は、体がこちらに近づくだけで、肌の下を流れる血潮の音が聞こえるような勢いがあった。
そんな彼ら彼女らが身辺にいるのが、彼には当たり前だった。

 何度か見合いをしたことがあったが、婚期を視野にいれて見合いに踏み切った女性たちの肌の張りが谷口には気にいらなかった。
彼にそのような苦言を呈する余裕も権限もあろうはずはなかった。
またすべての教員がそのように感じるものではないことは、もとよりである。
そこには性癖というしかない、動かしがたい人間の業が小暗く横たわっていた。

 だが、現実には、十代の少女たちは谷口にとって恋人にすることなど不可能な存在であり続けた。
それでも二〇代の頃は何度かあらぬ試みに走ったこともあったが、手痛いしっぺ返しを食らうに終わっている。

 病虚弱児学校中等部への転勤辞令を受け取ったとき、谷口は暗澹とした。
もはや弾けるような健康にあふれた美しい少女たちとは触れ合う機会さえ奪われたのか。

 だが、沙織が入学してきた時、谷口は細胞がざわついた。
沙織の美貌は一三歳の入学時でさえ同級生の群を抜いていた。
彼女が松葉杖を用い、体をくねらせながら足を引きずる身体障碍でなければ?
谷口は自分が好きなテレビのアイドルたちと重ね合わせて、「劣らない」と独りごちてほくそ笑んだ。

 十六歳になったその沙織を今、谷口は三年越しの恋で自らの体の下に組み敷いている。
いつまでも味わっていたい柔らかい唇の感触から息を継ぐように離れると、沙織はやっと言葉の続きを発することができた。

 「いいの? 本当に私で」

 沙織は自分が、障碍のない「健常者」と呼ばれる男のひとりに選ばれる日が来るとは、これまでの人生の中で一度も想像したことがなかったのだ。

 谷口はそれには答えず、カッターシャツを大きく開ききり、そこにまろやかに広がった両の乳房をつかんで揉みしだいた。そして桜色の初々しい乳首に歯をたてた。

 これから始まることが何なのか。

 友人たちとも孤立した思春期を過ごしてきた沙織は殆ど何も正確な知識を持っていなかった。
ただ、今までに経験のない痺れるような感覚が、肌の上をさざ波のように走っていくのを感じた。
その波紋は全身を覆いつくしていき、左足がゆがんでいること、松葉杖に頼り体を左右に揺らすことによってしか歩けない自分が、ひとつの完全な形をした光の繭に包まれる。

 (私が完全体になる)

 沙織の脳裏にそんな言葉が浮かんだ。


  男と女の秘め事のすべてを沙織は谷口に学んだ。
想像もしていなかったその行為の間、沙織の脳裏には花から花へと飛び回る蜜蜂の姿とその羽音が聞こえていた。
この星の上に生きる生き物たちの歓喜の歌の合唱隊に沙織は参列していた。

 聞きかじったいくつもの噂話の複雑なジグソーパズルが奇跡のような速さで次々に嵌まり、完全な一枚の風景が目の前に広がった。
どこまでも続いている色とりどりの花園の上を沙織は翔んでいた。

 行為が終わっても沙織の体にしがみつくようにしばらくじっとしていた谷口が、ひと心地ついたのか、体を起こし、ベッドの端に腰掛けると煙草に火をつけた。
沙織は枕元に谷口が乱暴にばらまいていた自身の下着や服をかき寄せると、身につけはじめた。

 ふいに振り返った谷口がそれを見ると

「なに、してんねん!」

と怒気を滲ませた声で言った。
沙織はわけがわからずただ鼓動を高鳴らせて目を見開いた。

「誰が服、着てええって言うてん」

「えっ。あかんのん?」

「オレが服、着てええって言うまで着るな」

 そうか。谷口が剥ぎ取ったものは、谷口がいいというまで元のように身につけてはいけないのか。
それが男女のしきたりなのか。

 沙織はそれについても何も知らなかったので、それがこの世界の決まりなのだと信じた。

「ごめんなさい」

 そうしてそのまま艶やかな裸体のまま、ベッドの上に恥ずかしげに横座りしていた。


 後に沙織がほぼ同世代の彼氏と付き合ったとき、信じていた「しきたり」通りに着衣の許可を待っていると、彼は怪訝そうに彼女の姿を見つめて

 「なんで服着いひんのん?」

 と首をかしげた。

 「えっ、着てええの?」

 沙織から過去の習慣を聞いた彼は

 「かわいそうに」

 と言うと、沙織を抱き寄せ、手にとったブラジャーを背中に回してホックを填めてくれた。

 「着てええねんで。大事な体が冷えるやろ」

 言いながら彼は自分の着衣もそこそこに沙織に服を着せてくれた。

 世の中には色々な男がいて、しきたりややり方、激しさややさしさにも、無数のバリエーションがあることをそうやって沙織は学んでいった。

 

 谷口はどちらかというと充たされない恋愛生活を送ってきた男だった。
その積もり積もった不満が、初めて自分より下に見ることのできた沙織という少女に対する居丈高な態度に現れていた。

 しかし、何もわからない沙織は、それを男と女の普通の関係だと信じて、何もかも谷口に合わせて付いていった。

 大人になった沙織が後に振り返るとき、この谷口への思いは何度考えても複雑だった。
良いようにもてあそばれたという考えが膨らんでくると、「今の自分なら訴えてやったのに」という憤怒がふつふつと湧いてくることがあった。
だが、一方、何も知らなかった自分に初めての扉を開き、何もかもを教えてくれた男へのひとかけらの感謝の念を覚えないでもなかった。

 ある時、谷口はいつものように行為のあと、ベッドの隅でひとりで背を向けて煙草を吸っていた。
沙織は長い間、口に出来なかったひとつの不安を、その谷口の背中に向かって投げかけた。

 「わたし、高校卒業したら・・・・どうしたらええのん?」

 谷口は煙草をテーブルの上の灰皿に押しつけて消すと、少し怒ったような声で言った。

 「心配せんでええがな。うちに嫁に来たらええねん」

 「ええのん?」

 「初めからそのつもりや。そやないと、こんなことにはならへん」

 沙織はその言葉もまた信じた。
女は最初に結ぶばれた男と結婚するという素朴な考えも、その時の沙織には「女性は行為のあと、男性の許可があるまで服を着てはいけない」という決まり事と同じように、ただただ信じるしかない「この社会のしきたり」なのだった。


 谷口から「新任の英語の先生と恋に落ちたから別れたい」と告げられたとき、沙織は世界が白黒になってしまったように感じた。
これならまだ何も知る前、何も期待していなかった時の自分の方が心が穏やかで満ち足りていた気がする。

 そう告げておきながら、谷口は「最後にもう一度」と言って沙織の体を抱いた。
沙織の体は谷口によって目覚め、谷口によって開発され、谷口の愛撫に応えるように完成されていた。

 彼の熱い手が通ると肌は焼け、彼のたぎり立つものが貫くと体の奥が痺れた。

 (私の人生でこれが最後なのか)

 沙織は本気でそう考えた。
二度と「健常者」との恋愛という「珍事」は自分の人生に起こらないだろうと思えた。
それは障碍を持つ女生徒を受け持った教師との恋愛という条件下でだけ、人生に一度限り生じたイレギュラーなのだとしか考えられなかった。

 行為を終えると、ベッドの上で抱き合ったまま、谷口はそんな沙織の心理を見透かしたかのように囁いた。

 「おまえは障碍者やけど」

 谷口は言った。

 「めちゃ綺麗な顔してる。笑顔もかわいいし、肌も艶々してる。そやから・・・またきっと恋ができる。たぶん今度は、オレのようなおっさんではなく、同世代の男と」

 確かにこれまでにも沙織は学校や病院で同世代の男子から淫靡な目で見つめられたり、プレゼントをもらったり、「結婚したい」と拙い金釘文字で書いたラブレターをもらったことさえあった。

 しかし、それは皆、沙織よりももっと重度の障碍を負った男子からだった。

 沙織はテレビで流行しているK-popの、イケメンでやさしげな男子たちが、切れ味のいいダンスに跳びはねる姿に憧れていた。
今度、恋愛をするなら、あのような男子たちの誰かがいい。

 そのような恋愛ができれば、谷口を忘れられるかもしれない。

 しかし、そのようなことは端から不可能と思って生きてきたからこそ彼女は、谷口との初めての恋を、最後のものでもあると信じて谷口にすがってこの八ヶ月という歳月を生きてきたのだった。

 「無理やわ」

 沙織は両目に涙を浮かべながら、谷口の胸を突き放すように押し返した。
松葉杖や車椅子を日常的に操作している沙織の腕は逞しく、谷口は強い力で体を突き上げられた。

 「私、もう、普通の人と恋愛するの、無理やわ」

 体を起こした谷口はもう何も言わなかった。珍しく行為の後の煙草も吸わず、シャツのボタンをはめ始めた。

 「服着てええで」

 沙織にもいつもより早くすぐにそう言った。

 「どこ行くん?」

 沙織はなじるように叫んだ。

 「私を傷ものにして、こんな体にして、急にほっぽり出してどこ行くん?」

 谷口は応えなかった。

 沙織が目を閉じると白黒の画面の中に電子ノイズの雨が降っていた。

 サーっというノイズ音が聞こえる。雨は次第に激しさを増していく。
時折り、そこに白黒以外の奇妙な彩度を持った光の粒子が点滅する。

 ノイズも音量を増していった。ただの電子音と感じられるものの中に、オーストラリアのアボリジニの演奏を聴いたことのあるデジュリドゥの倍音が混じる気がした。

 そして突然プチっと何かが途切れるような音がした。

 そのとたん、何もかもが明彩を失って、あらゆる音も途絶えて、世界はブラックアウトした。

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