日記 2024.2.6

数日の睡眠不足と疲れで割と長めに寝たけれど、今日は午前中にガスの点検が来る予定なのでダラダラすることなく起きた。昨晩シャワーがめんどくさくてそのまま寝たのでとりあえずシャワーを浴びる。洗濯もする。
雪は雨に変わって、着々と溶けていっているように見えた。

10時過ぎにガス点検が来て、ガス漏れがないかチェックしていく。何もないものと思っていたらガスストーブのホースの根本からガス漏れしていて、もう使ってはいけないと言われた。この寒さで暖房を急に禁止されたことをびっくりしてしまったがガス漏れは看過できない。検索したら5000円くらいする。

諸々の買い物のため外に出る。ガスホースはまちのガス屋さんで買えた。初めて入ったお店だった。お店の人は座ったまま寝ていて、声をかけて起こした。amazonと同じようなものがちょっとだけ安く買えた。

午後は喫茶店で本を読み続ける。飛行機のなかでも読み進めていた『記憶を語る、歴史を書く』というオーラルヒストリーの本。学術史をレビューする内容が長く、その丁寧な手つきはとてもいいのだけどかなり気合いを入れて読む部類の本で、しかもしばらく置いておくと文脈を見失ってしまうためこれは今日一気に読もうと決めて読む。途中お店も替えて読み続け、21時くらいに読み終えた。ボディブローのように重く響く感覚があった。

自分は社会学者でも歴史学者でもないけれど、よく仕事でインタビューをしている。地域の昔のことを聞いて、そこから作品をつくったりしている。そんなことを10年近くやっているけれど、この行為は一体なんなんだ?という気持ちも最近抱いていた。なんだと思ってわたしは人に話を聞き、なぜそれを演劇的なアウトプットにつなげているのか。また話を聞いているとき、語られている過去の事実を少しでも正確に把握することを目指しているのか、語り方そのものに注目しているのか。このあたりは整理しきれないまま、その都度考えながらやってきていた。当然相手にもよるし、関係性にもよる。
過去のことを尋ねるときのひとつの落とし穴に、意識をしないと過去の事実の確認に焦点が寄せられていってしまうことがあると思う。何があったのか、それはどうだったのかの確認。それは誤解を恐れずいうとパズルや謎解きのようでもあって、よくわからないことを(自分なりに)よりわかる状態になっていく行為というかんじがする。それが何かの問いを深める行為ならいいのだけど、謎解きそのものの誘惑のようなものもある。その誘惑にばかり気を取られていると、下手をするとなぜ私はこの人の話を聞いているのか、いま行われているこの語りはなんなのか、迷子になってしまって、「アーカイブは大事」という一般論に自ら絡め取られていってしまう。

本のなかで書かれていた、語る側がどういう条件のなかで語っているのか、オーラルヒストリーがこれまでどのように読まれてきたのかのまた歴史であるという指摘は興味深かった。それは、誰かの語りを事実か事実でないかという単純な二項対立でとらえず、状況を丁寧にみていくことの大事さ、そしてその営み自体がさらに検証可能なものだということを言っているのだと思う。
これはある地域の過去だけでなく、過去とともに生きてきたある人の時間や、過去と現在の関わりがどのように生産されてきたのかという、分厚い相互行為へと目を向けさせる。語られなかった過去だとしたらそれがどうして語られなかったのかを考えることでもある。この視点は、作品づくりを「過去を現在に召喚する意義って?」という袋小路から逃れさせるヒントがあると思った。
穂苅実氏の「歴史実践」という概念も連想したが、オーラルヒストリーの場合「語る・聞く・書く」にフォーカスしているので、どのように概念を重ねられるのかはいまの自分にはよくわからない。

家に帰るとZOOMのF3が届いていた。散々買うか悩んだハンディレコーダー。週末の現場から使っていこう。
休まずに晩ご飯をつくる。あまりお腹が空いていなかったので、簡単に鶏肉と蓮根、新玉ねぎをグリラーでほったらかしで焼いた。新玉ねぎからものすごくたくさん水分が出て、ちょっとしたスープのようになっていた。

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