New Person, Same Old Mistakes――『Iké Boys イケボーイズ』と『HOW TO BLOW UP』

※初出/『週刊文春CINEMA!』(2024夏号 6/5発売)

 疑う余地なくAIが世界を席巻している。AIと戦争の話題を聞かない日はない、などと書くときが訪れたことじたい、いかにもフィクションじみていて驚きを禁じえないが、実際にどちらも日ごとさまざまに影響を拡大させている事実が報道されており、世界中のだれもが無縁ではいられぬ新時代が到来している。近年おなじくグローバルな喫緊の課題となったCOVID-19パンデミックが収束したと思った矢先、ただちにAIと戦争への対応にとりくまねばならなくなった国際社会の息つく暇もない感じはさながらHBOドラマかなにかのようでもあり――とはいえむろん軍事侵攻や武力衝突や弾圧虐殺といった人道危機の渦中に置かれたシリアやウクライナやスーダンやミャンマーやガザ等々の長期にわたる深刻きわまりない現実はそうした素朴な視点におさまりきるものであろうはずもないが――これぞ過渡期と言うほかない人類史の一ページをわれわれはいま経験していることになる。
 有用便利と謳う肯定論と失業危機を憂う脅威論が入りみだれるAI論の現状も過渡期ならではの混沌を実感させるが、映画業界においてそれが最もわかりやすく可視化されたのが昨年ハリウッドで実施された、全米脚本家組合W   G   A全米映画俳優組合S A G - A F T R Aによるストライキなのだろう。コスト削減につながる有用便利なAIの利用を今後どんどん進めたいメジャー映画スタジオに対し、仕事をうばわれ就業機会を喪失しかねない脚本家や俳優はむやみな導入の抑止とみずからの権利保護に動かざるをえない。かような対立劇として展開されたストライキは何カ月もつづいたすえ折りあいがつき、AIをめぐっても諸々の規定が盛りこまれるかたちで決着にいたったことが報道されているが、本稿の趣旨ではないのでその詳細には踏みこまない。
 ではなにゆえにAIを話のとっかかりに選んだのか。それは前回の締めくくりとの連続性をはかる意図もさることながら、今回は模倣という方法を軸に近日公開作を紹介したいと考えたからだ。
 AIによる創作とは(現時点では)端的に膨大量の学習記憶にもとづく模倣のつぎはぎと言えるわけだが、これは人間の側にもあてはまる原理であることを忘れてはならない。いかなる創作分野であれ知識をいっさい持たぬ状態での作品制作など不可能である以上、例外なくだれもが多かれ少なかれ既存作品を真似せざるをえないためだ。
 前回とりあげたロマンチック・コメディーなどのようなジャンル映画の場合、長らく受けつがれてきた特定の規則を厳格にまもって組みたてようとすれば(よくもわるくも)古典の寸分たがわぬトレースとなり、ガス・ヴァン・サントが監督したリメーク版『サイコ』(これじたいは疑似ドキュメンタリー形式が映画でもテレビでも急速にはやりだしていた一九九八年当時に発表される批評的価値があった)みたいな作品ばかりができあがることになる。そして規則の厳守を得意とし原典にぴったり寄り添うことにためらいも疑問も感じないAIには、おそらくはある段階に達すれば(すでにそうなっているのかもしれぬが)リメーク版『サイコ』みたいな作品の量産体制構築が可能となるだろう。
 すなわち、ジャンルの規則に忠実たろうとするスタイルを模倣と呼ぶとすれば、機械と人間の手がけたパスティーシュ作品を見くらべてみた場合、再現性の度合においては前者に分があるという時代にさしかかっているわけだ。後者の表現はつねにズレだのブレだのといった偶然の変数﹅ ﹅が入りこみ、人力ゆえに機械のような安定性や正確性に欠けてしまうのは周知のとおりだ(いまだ発展途上にあるAIのほうが異形を生成しがちという声もあろうが早晩それは修正されるにちがいない)。ただし裏をかえせば、ズレだのブレだのといった偶然性の部分をとりのぞくどころかむしろ歓迎し受けいれ、方法化してきた結果としてこの映画史の変遷と多様性があるのだから、これがネガティブな指摘でないことは言うまでもない。
 要するに、ズレだのブレだのこそがイノベーションに直結し、歴史をかたちづくる重要なファクターとなってきたという話だ。たとえば(デジタル配信や光ディスクはもちろん家庭用ビデオもなかった)一九五〇年代のフランスで挑発的に筆を揮った批評家アマチュアらが六〇年代をむかえて実作者へと転身し、スクリーン鑑賞の記憶のみを頼りにロケ撮影で撮影所プロフェッショナル作品を再現することに失敗し﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅、ジャンルの刷新に成功した﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅のがヌーヴェル・ヴァーグだったと説けばわかりやすいだろうか。
 この数十年を振りかえれば、AIの登場を待つまでもなくデジタル化やら情報化やらといった技術革新がパスティーシュの容易化を推しすすめていた事実もある。検索し再生し参照する、といった行為がプロ・アマ問わずあたりまえとなり、やろうと思えば加工技術で元ネタそっくりに仕あげることも可能だ。音楽や漫画などの創作分野でも古典再利用の手法化は定着してだいぶひさしいし、近年は実話原作だらけとなった映像文化においてはアーカイブの豊富な二〇世紀の風俗や情景をこぞって再現しまくっている。
 そこへとどめを刺すみたいにAIが登場したため、模倣という方法についてはいよいよ再考ないしは再検証が必要な段階にきているのかもしれない。単なる再現性の高さはもはや評価軸として働きそうにない。しかしそれでもなお、古典の再利用やパスティーシュを試みるとなった場合、いかなる工夫を加えればAI以後﹅ ﹅ ﹅ ﹅にふさわしい表現になりうるのか、そのアイディアの競いあいもまた時代の潮流になってゆくのだろうか。あるいはそうした同時代的課題に敏感に反応し、作品制作をいちはやく進めている勘のよい作家たちがいてもおかしくはない。
 今回とりあげる一本目の『Iké Boys イケボーイズ』は、アニメや特撮など日本のおたく系サブカルチャーにはまるアメリカ人男子高校生ふたりと日本人女子留学生の三人が主要キャラとなり、ノストラダムス的終末観に彩られた一九九九年の年末から年始にかけてオクラホマの片田舎でくりひろげる冒険活劇をアニメーションと実写の混成により描きだす低予算ファンタジー映画だ。当の三人は、一九七二年に日本人監督が発表し不入りに終わったいわくつきのアニメ映画をDVDで観たのがきっかけとなって三者三様のスーパーパワーを手に入れたすえ、世界を滅亡の危機に陥れるカルト勢力との戦いに向かうことになる、というのがだいたいの内容である。
 日本のおたく文化へのオマージュとしてつくられたというこのSFパロディーは、模倣について考える好材料になるかもしれない。パロディーゆえ模倣対象のステレオタイプをちりばめるドラマ構成をとっている本作において、とりわけ強く印象に残るのは片言の日本語や日本語的発音の英語によるやりとりだ。そのやりとりがもたらすつたなく珍妙な雰囲気を主調として作品を組みたてたのは正解だったと思う。
 低予算作品ではあれ、実写パートの撮影や合成加工やアニメ描写などからはたしかな技術にささえられた映画であることがうかがえるが、役者の芝居は全篇にわたりドラマ仕たてのカラオケ映像を彷彿とさせるような拙劣性﹅ ﹅ ﹅を帯びている。その要因は言うまでもなく片言の日本語や日本語的発音の英語によるやりとりなのだが、じつのところそれが作品の世界像にマッチし独自色をつくりあげるのに役だっており、最終的には必然的な演出であったと理解できる仕かけにはなっている。というのも、九〇年代末の日本のおたく系サブカルチャー作品に特有の表現をアメリカ映画において自然に再現しようとすれば、このちぐはぐで生々しいアングラ感をあえて強調するしかなかろうと思われるからだ。いずれにせよ、機械のような安定性や正確性とは真逆の模倣様式として意義ある実践と言える。
 次にとりあげる『HOW TO BLOW UP』(以下ネタバレ)は新鋭作家ら数名が絶賛しているという若手監督による異色の犯罪映画だが、一見のかぎりでは明らかな模倣やパロディーには思えぬかもしれない。が、若い環境活動家らがチームを組み犠牲者なしの完全犯罪としてもくろむ石油パイプライン爆破テロの実行過程を時間を前後させつつ多視点で物語り、粗い粒子ながら機動性を活かせる一六ミリフィルムでの撮影と推進力重視のカット構成を組みあわせ緊迫感を演出する作風が、ある古典作品とのかさなりあいを強く意識させる。本作が影響を受けたとされる作品名や作家名がプレスリリースで紹介されているものの、そのリストには筆者の思いうかべた映画はなかった。しかしこれはどう見ても、スタンリー・キューブリックの『現金に体を張れ』の現代版と言えるのではないか。
 むろん単なる焼きなおしではない。完全犯罪が最後の最後に破綻する『現金〜』の展開を踏襲しつつも、『HOW TO BLOW UP』では逮捕にいたる犯罪の失敗こそが逆にデモ活動じたいを成功へと導き、結末の意味をすっかり反転させているのだ。具体的にそれがどういうかたちをとるかは劇場で確認してほしい。見事な更新の試みとして評価したい一篇だ。


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