あれから13年

今回はABCRとしてではなく、菅原航陽個人としてちょっとした思いの丈を書き留めておきたいと思います。


文章が長いとかくどいとか言われることも多い為、いつからかブログを書いたりSNSの投稿をすることに苦手意識を感じるようになり、最近はその辺りのことをほぼ全て妻に任せるようになってしまいました。


今回はそういう事関係なく、そして、誰かに何かを伝えたいというよりも、何よりも自分のために、改めてここから自分が再出発をするために、文字として言葉として明文化する意味で書こうと思いました。


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今年2019年、令和元年5月は、

・世界リレー@日産スタジアム

・関東インカレ

と、大きな競技会を2つ観戦に行きました。


日産スタジアムと関東インカレ


この二つは、僕の人生のターニングポイントとなる事件のキーワードでもあります。



タイトルにある「13年前」というと、2006年・平成18年。


その年のちょうど今頃、確か5月26日だったと思います。

僕の人生を一変させる出来事がありました。


当時僕は大学2年生。


早稲田大学スポーツ科学部スポーツ医科学科2年生。


そして早稲田大学競走部学生トレーナーでした。



中学2年で陸上部に入部し、入部からわずか1ヶ月でのまさかの松葉杖生活へ。


そこから2年間、体育も出来ない中学生活を送り、成長期にろくな運動が出来ないまま脆弱に育ってしまいました。


それゆえ高校でも結局1年間怪我しっぱなしで中距離ブロックで過ごした後、2年間はマネージャーとして過ごし、結局選手としての現役生活はほぼ無いまま大学でも競走部へ入部。


精神的にも弱かったと思います。

今だからこそそうハッキリと言えます。


でもそれは過去のこと。

今更それを呪っても、取り返せるものではない。


そんな、身体もこころも弱いまま名門・早稲田大学競走部に入部した僕に待っていたもの。


それは


強制退部。


自業自得の強制退部でした。



直接の原因は「遅刻」です。

日産スタジアムで行われた関東インカレという大きな大会での遅刻。


それ以前に色々あっての事でしたが、それもまた自業自得だと思っています。


でもそれも今更どうしようも無い。

色々な意味での自分の弱さがすべての原因を作ったんだと、それも13年経った今ではようやくしっかりと受け止め受け入れることが出来たとは思っています。


ただ、後悔と悔しさは全く消えません。


今でもやり直せるならやり直したいです。


ただ、その出来事が無ければ今の自分は無いと、それもまた確実にハッキリと言えることです。


部をクビになり、虚ろな毎日を過ごし、酷い鬱になり、大学にも行けず、卒業も半年伸ばし、人生を捨てて自暴自棄になり、ニートになり、借金もつくり、そんな状態で就職した会社もまたクビになり…。


その間、陸上からもトレーナーからももう離れようと、いろんなものを捨てました。


中学から購読して全てとっていた『陸上競技マガジン』や、部を去ってからもとにかく闇雲に勉強しまくった文献のコピー等々…。


2006年~2010年の5年間は、まさに暗黒の5年間でした。


しかしその中でも、大学の恩師から紹介して頂いたサッカーチームでのトレーナーや、一輪車競技、ラグビーチーム等でのトレーナーを経験させてもらえたことも、それらが無ければ今の自分は無いと確実に言える貴重な時期でもありました。


闇の中にあった光だったなぁと、振り返ると本当に救われていたと思います。


と、同時に、やっぱり陸上が好きだったんだと、その時はあんまり考えないようにしたり口に出さないようにしていましたが、心の中ではそれは明確だったんじゃないかと思います。


だから、後悔+悔しさ+違和感+弱さ→逃げに繋がり、結局はニート生活まで堕ちてしまったんでしょうね。


その頃は光が見えてはいても、その光からも自分で目を覆って逃げ出してしまうくらい、落ちに落ちた時期でした。


辛かった。本当に。



そんな自分を闇から引きずりだしてくれたのが、スポーツデポでの販売の仕事とそこでの先輩との出会いでした。


人生のどん底から、少しずつ人として再生するきっかけを得ることが出来たのは、そこで数年振りに少しだけ感じることができた自己効力感と、何でもない一人の人間として関わってくれた先輩のおかげです。



色んな人に迷惑をかけながら、2012年、再上京しました。



それからの暮らしについてのお話は、まぁ置いておくことにしましょう。


ひとつだけ、そんな自分が結婚できたことには、自分自身、今でも驚いています(笑)



ただ、再びトレーナーの道、そして陸上の道に戻って来ても、心の中でくすぶっている気持ちは絶対に消えませんでした。


一言で言い表すのは難しいですが、「劣等感」とか「うしろめたさ」とか、そういう感じの気持ちです。


大学時代以前の自分を知る人とは顔を合わせるのが辛かったし、合わせてはいけないと思っていました。


むしろ今でもそういう気持ちが完全に消えたわけではありません。


部を辞めることになった後、同世代のスーパースターから言われた「お前は甘かった」という言葉に身を縛られ、その鎖と共に生き続けた13年。


本当にその通りだと思うからこそ自分に重くのしかかり、何を頑張ってみてもどうしたって自分を認めてあげることが出来なくなりました。



しかし、それでもトレーナーとして、しかも陸上・ランニング専門のトレーナーとして生きてゆくと決めたのだから、いつかはそういう気持ちとも完全におさらばして、胸を張って生きて行けるようにと、治療も始めました。



そんな折、ありがたいご縁からまた箱根駅伝出場校のサポートが出来るようになった今年、日産スタジアムで世界リレー選手権が開催されました。


13年振りに日産スタジアムに行き、13年振りに関東インカレに関わることが出来ました。



これはもう、そろそろ自分の中で暗い過去を清算して、本当の意味での前進を始めるタイミングだろと。


神様がそう言っている、とかではなく、ちゃんと自分で自分にそう言って聞かせて、自分で覚悟を決めて進み、発信し、色んなものを吹っ切らなければいけないだろと。


平成から令和へと時代も移り変わったのだし。


そんな想いで、このブログを書くことに決めました。



今までだって隠してきたわけではありませんが、遅刻が原因で退部になったことだとか、その後の腐った生活だとか、やっぱりそれは非常に恥ずかしいことなので、出来ることなら全て隠して無かった事にしたいものです。


でも、そうすることは結局うしろめたさと劣等感を生むことになるので、改めてこうして、自分の恥ずかしい過去を暴露しつつ、素直な気持ちを記しておきたいと思います。


特に競走部の同期の皆さん、先輩後輩の皆さん、当時のスタッフの皆さんには、正直今まで顔向けが出来ませんでしたが、どう思われようとも、逆に何とも思われなかろうとも、これからはもう、出来る限り変な意識は持たずに生きて行きたいと思います。少しずつですが。


だからと言ってもちろん、競走部OBを名乗るつもりもありませんし、逆に1年だけ在籍した事実は事実として、今まで通りに自分の過去の一部としていようと思います。


こんな事は誰にとってもどうでも良いことだと思いますが、自分の中ではどうしても、明言しておかなければ前に進めないような気がすることなので、敢えて書き記しておきました。



世界リレーと関カレ、二つの大会を通して感じた一番の気持ちは


「やっぱり陸上が好き」


でした。



自分の甘さから、一時は逃げようとも離れようともしたし胸を張って言えなかった言葉ですが、もうちゃんと言おうと思います。


そして、色んなことから逃げずに、必要な発信をちゃんとして行こうと思います。




何だか着地点の見つからない文章になってしまいましたが、僕の恥ずかし過ぎる半生を明文化した上で、特に「早稲田大学競走部」に対して、


「自分はこれまでもこれからも、ただの菅原航陽として、色んな過去の事実を背負いながらも前に向かって生きて行きます」


という宣言をしたかっただけなんだということが、書いていて分かりました(笑)


もっともっと、ちゃんと強く生きて行きたいと思います!



追伸

今年から上武大学駅伝部のサポートをさせて頂けることとなりましたが、個人的な心の中での目標は、「打倒早稲田」です!


それが恩返しというか、良くも悪くも自分を自分たらしめる過去の繋がりに対する報いのような気がするので。




これまで僕に関わってくれた全ての方への最大限の感謝を込めて。

2019年5月28日

菅原航陽

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