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スウェーデンの野に夏花ぞ咲く 金栗四三の短歌 後編(note版)

日本人初のオリンピアンの一人、金栗四三は短歌を作る人でした。その作品をその半生とともに辿り、約20首の短歌を鑑賞しています。
前後編の後編。約10000字。見出しつけてます。

前編はこちら。

後編ここから。

新資料発見

 箱根駅伝ではチームの成績に関わらず最優秀選手の賞として、金栗四三杯がある。創始者である金栗の名を冠したものであり、持ち手のついた優美な優勝杯が贈られる。この優勝杯は現在熊本県玉名郡和水町が所有している、オリンピック・ストックホルム大会の国内予選会で優勝した際の優勝杯を複製したものである。これはその時贈られた優勝杯大小2点のうちの大の方であり、小の方は長く所在が不明とされていた。
 2020年1月、玉名市歴史博物館こころピアの企画展に小ぶりな優勝杯が初公開された。これは金栗の長兄の子孫が生家を和水町に譲渡する前に片付けをした際に発見し、玉名市に寄託した資料の一部である。クラシカルでシンプルなデザインのそれが所在不明の優勝杯小であり、金栗の生家の母屋に、木箱に入れて保管されていたものだという。同じ箱の中にあったという流麗な筆文字により短歌がしたためられている赤と白の小布も同時に公開されていた。新資料、しかも短歌の発見は筆者にとって書き進める弾みとなったものである。

東京高師入学、長距離走の目覚め

 1910年(明治43年)4月、金栗は東京高等師範学校(以下、東京高師とする)に入学した。新入生は150人。この学校は近代教育の担い手としての旧制中学校教員の育成のため作られたもので、金栗は地理歴史科の教師となる道を選んだ。校長は嘉納治五郎。柔道の父と呼ばれ講道館の創立者として知られているが、日本体育の父とも言われ、この前年に東洋人で初めてオリンピック委員会の委員となった人物である。この出会いが金栗のその先を決定づけたとも言える。

 金栗は今日の大学生と同じく楽しくも忙しい学生生活を送ったようである。尊敬する師との出会い、初めて出会う学問、課外活動、友人との交流。華やかな大正時代へ向かう過程にあった東京での学生生活である。初出は熊本日日新聞夕刊での連載でありそれをまとめ、後に出版された金栗の伝記『走れ二十五万キロ』には生き生きとした様子が記されている。それらエピソードの中に、後年のマラソンの金栗につながっていくものが現れてくることが興味深い。

 東京高師は全生徒が寄宿舎へ入る決まりで、1年生の入る寄宿舎は学校から4キロほど離れた場所にあった。1年間、生徒のほとんどが歩くこの道を、幼少時からの駆け足通学で足に自信があった金栗は毎日走って往復し、20分先に出た仲間よりも早く着くため、ここでも韋駄天との評判を受けていたという。しかし金栗にとってこれは単に体を鍛えるためと移動の手段であったという。その他、水泳や校内のボート大会、課外授業の剣道など、玉名中学時代とは打って変わって自ら進んで取り組み、剣道は上位になる。この頃のことは伝記に「物事は初めから自信がなくてもやろうと思えばやれるものだ」という言葉が残されているように、物事に取り組む意識が大きく変わったことがわかる。
 東京高師には1年に2度、校内長距離大会があった。春は12キロ、秋は24キロの行程を走り、終わればゴール地で大園遊会、という鍛錬と楽しみを兼ねた行事で、春の大会で金栗は25位。全校生徒600人の学校では立派な成績だが、金栗はスタートの失敗がなければもっと上位だったのではと考え、慎重にペース配分をしつつ参加した秋の大会では3位。1年生としては学校創立以来の成績であり、金栗は家に報告の手紙を出したという。その返信に「走らせるために東京に行かせたのではない」という小言があり、大層がっかりしたという。
 伝記には言葉の通り、理解してもらえなかった失意として書かれているが、これは金栗の走ることに対する意識が少し変わったことの現れであるようにも取れる。常に家族に感謝し、ひたすら良い成績を、と考えてきた金栗の中に走ることに対する特別な思いが生まれた瞬間のように感じられてならない。この翌年春の大会では一位となるが、その時、これ以降は結果は家には知らせないことにしたという。金栗はそれを心配をかけないためとし、走ることについては「人並み以上の体力をつけておかなければ、人一倍の勉強もできるものではない」という理由をつけていたという。走ることとエリート校の学業との優先順位は比べるまでもない百年前の価値観の中で、自分が手に入れた特別な、大切にしたいものを守るための自他ともに納得させられる方便のように感じられる。オリンピックの国内予選の約1年前のここに、マラソンの金栗が始まったようにも思われるエピソードである。

 ここから先の出来事も、象徴的・運命的なものが続く。2年に進級すると寄宿舎は本校に移り、そこでの部屋割りは所属する運動部ごとになる。部は体育の一環であるため全員が所属する決まりとなっていた。金栗は悩んだ挙げ句、陸上競技部である徒歩部に入部する。これも金栗は学業にプラスになると予防線も張っているが、練習すれば相当良い成績が出るだろうし、他大学に比べ貧弱な自校の徒歩部に刺激を与えられる、などを入部の理由にしているから走ることに自信を持ち始めていたことがうかがえる。後年、伝記の前身の新聞の連載としての取材があった昭和30年代、60歳代の金栗はこの頃のことを自分のターニングポイントとしてよく思い出していたようである。

優勝杯の短歌3首

 そこからの金栗は走ること一筋の生活を送る。練習を工夫し、二年生となった春の長距離走大会では優勝。これは人生最初の優勝である。夏の帰省では一年時に失敗した富士山登頂に成功。そこで現在の高地トレーニングにも似た長距離走トレーニング法を見出す。秋の長距離走大会も優勝。そしてオリンピックの予選会へと臨む。金栗がそれを知ったのは予選会まで二十日あまり。25マイル(約40.23キロメートル)という未知の距離に不安を感じつつも出来る限りの練習をし、1911年(明治44年)11月19日、予選会に出場する。足袋で未整備の道を走り、その上小雨交じりの強風と寒さの中、結果は1位。そして2時間32分45秒という世界記録を27分上回る記録が出た(※この記録は近年、距離の計測ミス・この直前の世界記録よりも短い距離だったなどの説がある)。かくして金栗は熱狂をもって報じられる。伝記には以前の経験から実家にはすぐには知らせず、オリンピック参加の旅費が個人負担と決まった翌年3月に手紙を書いたとされているが、2020年1月に公開された資料によれば、予選会から3日後に兄に手紙を送り、その更に10日後には手紙とともに優勝杯を送っていたようである。優勝杯小が発見された折、箱の中には赤と白の小さな布切れも収められていたという。花束や優勝杯にかけられていたリボンの一部だろうか。それぞれに一首ずつ流麗な筆文字で歌が書かれている。

きみがいきみ国のためにたち給へ血汐をくみて我れ送るべし
ほまれある君が冠かざるべきかつらの小枝紅葉しぬらむ

 1首目、赤い小布の歌。あなたの心意気がお国のために知れ渡りますように。血汐を汲んで私は送りますとの意。君は手紙の送り先の長兄のことだろう。血汐とは激しい情熱と見るべきで、液体を汲むことの出来るカップを送っていることに掛けているものと思われる。
 2首目、白い小布の歌。栄誉あるあなたが冠を飾るべきです。桂の小枝は紅葉してしまったでしょうかの意。「冠」は自身の優勝に対して贈られた冠のことと考えていいだろう。兄の心意気に対して、あなたこそがそれにふさわしいと言っているのである。冠も同時に送られ、そこにこの歌が添えられたのではないだろうか。続く下の句について、このかつらとは「桂」で、月桂樹と桂の木の混同があった時代であると考えると冠の素材を指していると考えても不自然ではないが、いま送るものについて、このような尋ね方をするだろうか。推測なのだが故郷の庭やどこかにカツラの木があったのではないだろうか。カツラはこれを送った時期である秋に紅葉する。冠に掛けて故郷について尋ねていると考えることが出来る。

 どちらも技巧が凝らされており、贈答歌の側面を持つ。近代の歌というより和歌に近い趣があり、贈る相手を思う気持ちの強さと熱量が感じられる。しかし自らの記録を喜ぶ姿からは少し離れた歌である。予選会の後すぐに出された手紙ではゴールで嘉納校長に祝福されたこと、渡欧の際はまずは兄に相談することなどを記してある。それに対する兄の返信は金栗の心を震わせるような、予想外に良いものであったから、その後優勝杯を送る際にこのような歌を付けたのではないか。伝記では翌年三月に出した手紙に対する兄の返事が「家族・地元ともにとても喜んでおり、家門のほまれ、渡欧のお金は田畑売っても用意する」といったものだったとなっているが、これが最初の手紙への返事であったのかもしれない。日本代表として行くことになる金栗を支えようという兄の心意気に対して詠まれたものとすればこの熱量や思いにも合点がいく。添えられていたという手紙にはもう一首、歌があった。

遠き世の勇士の面かげしのばれる君よ願わくは邦家のために 自重せられよ

 はるか昔の勇士の面影が思い出される君よ、願えるならば日本の国のためにご自愛ください、との意。最後の「自重せられよ」は行を変えて下部に添えられており、定型からは七音が余りになるのでどこまでを歌とするか考慮すべきところだが、内容の必要性から今回は加えることとした。これも理解し支援を表明してくれた兄に対する敬意と感謝に満ちたものである。

シベリア鉄道内での短歌4首

 こうして金栗はオリンピックへ向かう。1800円、現代で言うと約550万円と言われる高額な費用は、驚くことに大半が東京高師の教授・生徒の寄付によって賄われた。数ヶ月をトレーニングや海外での振る舞いの練習、準備などに追われた後、1912年(明治45年)5月16日、日本を発ちストックホルムへと向かった。海外に行かない人がほとんどであった時代の渡航であり、食事や洋装、マナー、言葉など慣れないことばかりの上に、人々の期待などを受け止め、不安と期待がないまぜになっていたであろうことは想像に難くない。この旅はとても大変なものだったという。日本選手団はシベリア鉄道を利用して2週間余をかけて向かった。船でウラジオストクへ渡り、丸2週間の間列車に乗り続ける旅である。これが日本からは最短であったという。金栗はこの旅について『盲目旅行 国際オリンピツク競技参加之記』というタイトルで遠征手記をつけている。5ヶ月分、分厚いノートに2冊のこの手記は、後に金栗が『走れ二十五万キロ』の取材において当時を語る上のベースになったものと思われる。生活から風景にまで思いを率直に書いた手記には短歌も多く含まれている。

雲ふかくたれこめてけりウラル山東へ西へとへだつ雄々しさ
ウラル山名には聞けども今ぞ見る心も勇む駒のいななき
ウラル山かの福島のとどめたるあとはいずくぞみまほしものを
ウラル山われもいましの上にあり高しとぜずや日の本の民

 1首目。3句目の東と西は、アジアとヨーロッパを指すものだろう。実景と境界を越える感慨を大きく歌っている。
 2首目、得意の係り結びが見られる。ちょうどそこにいた馬がいたのだろうか、3首目の歌に登場する福島こと、1892年(明治25年)にユーラシア単騎横断をした福島安正にイメージが上手く受け渡され、四首目の気負いと高揚に満ちた歌につながる。
 ウラル山脈はユーラシア大陸においてアジアとヨーロッパの境とされる。歌が詠まれたのは日本を出発して9日目の5月25日。アジアからヨーロッパに入る感慨を山景や馬を詠み込みつつ若々しくも丁寧に歌っている。複数の歌はよほどの感慨である。前出の兄に対する歌と同様、国の代表であること、日本人であることを強く意識し気負いに気負っていることが伝わってくる。

ストックホルムでの短歌6首

 この数日後、ストックホルムに着いたその日に早速練習開始。慣れない海外生活に翻弄される日々に詠まれた歌が残されている。

奮へ人四とせの間磨ききし腕試さむもこのときぞとき
奮闘の声もとどろに吹きならすスウェーデンの野に夏花ぞ咲く

 1首目。勇み立て、4年間磨いてきた腕を試すのも今この時だ、との意。2首目、奮闘する人々の声が響き渡るスウェーデンの野原に夏の花が咲いている、の意。競技場もしくはその近くでのことだろうか。こんな時にも金栗の目はスウェーデンの夏花を捉えているのが印象的であり、滞在中に押し花を作り日本に持ち帰ったものが現存している。また他国の選手の様子に共感を寄せつつ自らも奮い立つ様子も感じられる。体格も用具も練習法もなにもかもが劣って感じられ、選手は短距離の三島弥彦と自分の二人きり。日本からの同行者は監督である大森兵衛夫妻と団長の嘉納治五郎と少ない上に大森監督は重い病気で寝込みがちで三島の記録は奮わず。孤独感やさびしさ、高まるプレッシャー、夏の高緯度の国特有の白夜での睡眠不足と追い込まれてしまった金栗を救ったのは早朝の散歩であったという。

異国の心地もせざる山の中小鳥の声を聞きながら行く
街を出て樹木しげれる山中にさ迷ひながら気をぞ養ふ
人はなれ山にわけ入り新鮮の空気を吸へば苦をぞ忘るる
道ばたの野バラをつみてわが部屋にいけて眺むるここちよきかな

 1首目。異国は「とつくに」と読むべきだろう。外国という感じがしない山中で小鳥の声を聞きながら歩く、の意。故郷の春富村の山中を思い出していたのかもしれない。
 2首目、3首目。街を出て山の中を行くことはすなわち様々な現実から離れるということだったのだろう。早朝の山の清々しい空気を吸い、少しずつ自分を取り戻していく姿がそこにある。2首続けて係り結びが見られる。
 4首目。道端のものだから野花に近いささやかで可愛らしいものだろう。それでも薔薇であるから香りもあるかもしれない。それを部屋に生けて心洗われる思いをしている。いじらしい姿である。必死で踏ん張っている日々の一瞬の癒やしが小さな野の花であった。この4首目、本来金栗が旅先で手記に書いたものは以下の通りである。

道端ののばらをとりて吾室に生けて眺むる心地よきかな

 こちらがオリジナルであるが、伝記では先出のものとなっているので金栗が整え直したものと考えられる。

 こうして挑んだマラソンは奮闘したものの当日の異常な暑さにより熱中症のような症状で倒れ、途中棄権。気負って出場した初めてのオリンピックは厳しい結果で終わった。必需ではないものとしてスポーツに取り組むことへの理解が無い時代であり、それが唯一認められるのはメダルを取ることであることがわかっていた金栗にとって、絶望的な出来事であっただろう。現地入りしてからの金栗を支えたものは草花と自然、そして短歌だったように感じられる。手記を綴り、日々や出来事の締めくくりとして丁寧に歌を詠むことが心を鎮め生活のリズムを整える一環となっていたのではないだろうか。

アントワープ大会へ向かう船上の短歌2首

 この8年後、第7回オリンピック、アントワープ大会に参加した際にも金栗は『㐧七回オリンピック遠征の記』という手記を書いており、そこにも短歌が見られる。

よこはまのはとばに集ふ友だちを見下してたつこれや丸上
身動きもならずつどひしよこはまのはとばの友は我等を送る

 日本を発つ際の歌。「これや丸」は当時のサンフランシスコ航路の汽船。選手団は太平洋を渡りアメリカを横断し、ロンドンを経由ののちアントワープを目指した。横浜の港に沢山の友人が見送りに詰めかけている様子、それを歌にした金栗の様子も感じ取ることが出来る。2首とも伝記未収録。手記の冒頭、序文の後に続けて書かれていたものである。

その後 栄光と挫折

 金栗の業績は多くこの時代に形成されたものである。ストックホルム大会以降の金栗は公私ともに変化に次ぐ変化と、栄光と失意が目まぐるしく訪れる時期を生きていく。1913年(大正2年)には第1回日本陸上競技選手権大会で、非公認ながら2時間31分28秒の世界記録。翌年の同じ大会でさらに記録を縮め、2時間19分30秒の世界記録を樹立。それでありつつオリンピックには恵まれず、絶頂期であった1916年(大正5年)の第6回ベルリン大会は第一次世界大戦のため中止。第7回アントワープ大会は16位、その次の第8回パリ大会は33キロ付近で意識を失って倒れ、棄権となっている。

 金栗は自らも走りつつマラソン・体育の振興のために尽力した。東海道五十三次を走る日本初の駅伝競走、極東選手権、下関東京走破など長距離走破への挑戦、富士登山競走、関東大学箱根往復駅伝競走の企画実行など、数々の業績を残していく。用具の開発、指導にも力を入れ、足袋屋と協力しマラソン足袋を開発し、現代にも通じるマラソン指南書『ランニング』を出版。東京で地歴科の教師として働きつつ、マラソンのため飛び回る多忙な日々を送っていた。

家族への短歌 3首

 時期は戻るが、金栗はストックホルム大会の二年後である1914年(大正3年)に、生涯を共にする妻、スヤと結婚。親類である裕福な旧家、池辺家の養子となった。自身はマラソンのため単身東京で過ごし、熊本に離れて暮らす養母と妻に送った手紙の中にも歌が見られる。

秋風の吹けば夕も淋しかりはまべさまよふ人もゐなくて
浪よするはまべは今も変わらねどつどひし人は今何処にや
黒々と男らしくもなりにけり花の都にいざ帰りなん

 伝記に収録されているこの手紙は1915年(大正4年)9月7日付、金栗から妻へと宛てたもの。千葉県館山市北条での合宿が終わり東京へと戻る前日に書かれており、近況を伝え、妻と養母を案じている手紙の最後に添えられている。海辺の様子を抒情的に詠み、自分の様子も明るい調子で伝える。金栗は筆まめでよく手紙を書いたという。手紙を家族とのつながりとして大切にしていたことは多数の手紙とその誠実な内容から見て取れ、その中に歌があったことが興味深い。

晩年 おそらく辞世の歌

 その後、中年期以降はマラソンの指導と普及に尽力する。太平洋戦争後は堰を切ったように熊本県内の数々の陸上競技や駅伝大会を企画開催、戦争で中止されていた箱根駅伝を復活させ、県の教育委員長に就任。ボストンマラソンの監督となるなど八面六臂の活躍で、金栗の名を冠した大会が創設され、晩年までマラソンとともにある生活を送っていく。筆者はこの時期の金栗を覚えている。マラソン大会を見ている姿であったと思う。金栗をよく知らない子供の目から見ても、心から楽しそうなその笑顔が印象的であった。
 金栗は一九八三年(昭和五八年)十一月一三日、九二年の生涯を終えた。玉名市上小田にある池辺家の墓所に立つ碑には金栗と妻スヤの短歌が一首ずつ刻まれている。

若人の走り競ふを見つつゆけばストックホルムのマラソン偲ゆ
      金栗四三
あたゝかき
卋の人々に
安らへて
白露となりぬ
つゝがなくして

   すや

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  碑の下部、右が金栗のもの、左がスヤのものである。スヤの歌は金栗の歌に対する返歌だろうか。
 後年、かなり晩年に近い時期に作られたものと思われる。若者たちの走る姿。傍で見ている金栗の姿が浮かぶ。若者たちの姿に思い起こされる「ストックホルムのマラソン」の中にどれほどの思いがあることだろう。自身としても日本代表としても初めて出た大会であり、苦い挫折の思い出でもある。全てをひっくるめて夏花の咲いていたあのストックホルムが自分の原点であり、青春そのものであったのではないだろうか。

考察

 今回、前後編合わせて取り上げたのは20首と読み解く上で多い数ではないが、歌を通し見えてきたものの内で気になったのは、金栗の歌を詠む力と極めて自然に自分の中に歌があることである。日常に使わないであろう歌語を使い、縁語や掛詞、係り結びを駆使。詠まれた歌が一定以上の水準を満たしている。これには何か理由があるはずと調べたものの、全く理由となるものが見えてはこなかった。短歌の世界とのつながりを探してみたが、伝記中に歌人との付き合いは見えない。几帳面で誠実な金栗が取材を受ける際にそれを伏せるとも思えない。短歌の世界との特別な付き合いはなかったものと考えていいだろう。

 次に、金栗が置かれた立場、教養がありエリートであることがそうさせたのでは、と探るもこちらも説明に足る事実はない。金栗とともにストックホルム大会に出場し、当時の華族の生まれであり東京帝国大学、現代の東大の学生であった三島弥彦と比較してみることとした。三島も筆まめで金栗と同じく日記を書く習慣があり現代に同時期のものが残されているが、その中には一首も歌は無く、家族からの手紙にも歌はなく、その様子からは短歌が流行っていたとも、知識層・エリートのたしなみであったとも言いづらい。

 唯一、関連があると感じられるのは金栗がマラソン選手であったことである。二本の足で一定のペースで走ること、そして金栗が気づきマラソン呼吸法として高めた「すっすっはっはっ」のリズムは短歌と親和性が高い。短歌を読む時、句と句の間を詰めず一拍の休みを入れ、結句の後ろにも無意識に休みを入れる。五音と七音で三十一音、短歌は奇数で形成されているようで、リズムとしては偶数で音楽の拍子でいう2拍子で表すことが出来る。短歌は目で見るものではなく、言葉にして音にしてこそであり、その際リズムや韻律が重要となってくる。金栗の歌は定型であり、字余りも読み方でうまく吸収出来るかたちで詠まれている。推測の域ではあるが、律を整える上で走ることがプラスになっていたように感じられるのである。

 また境遇や偶然の小さな出来事の重なりは大きな要素となったと言える。幼児期の、和歌も詠めば百人一首も諳んじたという祖母スマとの暮らし。玉名中学時代に講談本に熱中したこと。時代の影響も否めない。短歌が一部の特権階級のものから個性と自由に開花した近代短歌として庶民の域にまで浸透したのが明治後期。金栗が東京に進学し、青春期を送った頃である。朋輩には短歌に凝った者もあっただろう。雑誌や新聞を通して触れていたことも考えられる。

 歌を読み、その足跡に触れるにつれ、大河ドラマ劇中のやみくもに快活な姿は一面の強調であったこともわかった。実際の金栗は地方から東京に出たエリートでありつつ、草木にも目が向く非常に緻密で誠実な人物であった。努力家でもあり、「体力・気力・努力」を信条として自分が決めたものはこつこつと継続し、時間がかかっても自分のものとした。そんな人物であった金栗が数々の偶然の出来事に立ち会ったから成ったものだと感じられてならない。日本体育の黎明の鐘として数々の業績を残した日々の側に短歌がある。そこには親しい人のため自分のため日常的に歌を詠む姿があった。

最後に 

 大河ドラマとして取り上げられる際の調査で玉名市や和水町に保管されている日記や手記が解読されたというが、それらは公開されていないため、短歌についてはここに取り上げた二十首しか判明していない現状である。また解読されていない手記や日記の中にも短歌が含まれていることは想像に難くない。墓所の石碑の歌は後年のものであるから一生を通じて膨大な数の歌が詠まれていると推察される。マラソンと関係ない家族旅行のエピソードも伝記にはあり、その中でどんな歌が詠まれたか、興味は尽きない。それらがいつか日の目を浴び、願わくは歌がまとめられること、その中に金栗の歌力を裏付けるなにかが発見されることを祈りつつ、筆を置くこととする。最後になったが、抑えがたい興味に突き動かされた筆者の突然の問い合わせに丁寧に応答しご教示くださった、取材当時、玉名市立歴史博物館の学芸員であった村上晶子さんに心からの感謝を申し上げる。

参考文献
・走れ二十五万キロ「マラソンの父」金栗四三伝 復刻版 長谷川孝道(熊本日日新聞社 2018年)
・ランニング 復刻新装版  金栗四三著 増田明美解説 (時事通信出版局 2019年)
・金栗四三 消えたオリンピック走者 佐山和夫(潮出版社 2018年)
・日本初のオリンピック代表選手 三島弥彦 ―伝記と史料― 尚友倶楽部・内藤一成・長谷川怜 編集(芙蓉書房出版 2019年)
資料提供
・玉名市立歴史博物館こころピア

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