えがお-1000

笑顔の破壊力/カメラ日記

今日も今日とて写真を編集していて気づいたこと。
笑顔の写真には、いい意味でも悪い意味でも破壊力がある。
それがくしゃくしゃの笑顔であればあるほど。

今日は少しめんどくさいはなし。
前提として、最近の私は自分の写真をもっと”説明”から”表現”にしていこうと思っている。

”説明”する写真は、いつどこで誰がなにを、とかそういう5W1Hに関連した話で、”表現”は、人にそれらの5W1Hを想像させるものなんじゃないか。
なんとなく、今まで写真に向き合って来てこんな暫定解がでている。もちろん説明と表現の間にも共通項はあるのだけど。

その文脈でいくと、”笑顔”の写真というのは、人がそれを見て”想像する”ことの深みが足りない。つまり、想像することまでも破壊してしまうんじゃないか、っていう。

自分も周りもそうだと思う。パッと出された写真がキラキラの笑顔であれば、それはもう紛れもなくいい写真だ。「いい写真だね〜」という周りの友人たちの聞き覚えのある声が頭の中で再生される。

でもそれは、「なんで笑っているのか」が気にならなくなってしまうようなのだ。
好奇心が死んでしまう。もちろん不気味な笑みを浮かべていたら違うかもしれないけど、弾けるような笑顔の写真の、その二次元の世界に閉じ込められているのは陽の部分だけだ。

”カメラの前ではとりあえず笑うのが当たり前”というのはきっと小さい頃から培ってきた条件反射のようなものだ。そりゃあ残るなら笑顔が、いいのだ。
家族や友達との私的な思い出写真ならそれでいい、でも、もう少し意味のある写真として、誰か知らない人の目に触れるものとして、笑顔のその先とかその裏とかその中にある感情を切り取らなきゃいけない。

色の乗ったちっぽけな平面上で、いろんな感情の寄せ集めでできたその人の一部を、くしゃっとに破壊してしまってはいけない気がするのだ。
それが、すごくむずかしい。

悲しみや、苦しみ、焦りも悔しさも。もっと表現してみたいのだ。でもそれはカメラを向けるとたちまちどこかへ隠れてしまうし、みんな人目に触れずお風呂の中で泣いたりしている。
その隠れているあなたの、心の深い部分を想像させるようなそれをもっと見たい。


どうしたらもっと、近づけるだろう、深いとこ。

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