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と言う事で絶賛実家トラブル中。
親になった事で子という自分を再認識して、私が反抗期してるだけなのかもという気持ちにもなってきた。

思いやりは足りてないかもしれない。
反省。

母と会うとぶつかる。
意見や思いが違っても受け入れてほしい、受け入れてくれる?というのを確認したいのかな。
そーかも。

だって、私の意見は
いやいやいや、
ダメだと思う、
それは無理だよ、
と、否定の言葉が返ってくるから。
いつも手にも取ってくれないで跳ね返されるから悲しいんだ。

子供返りしていたのかもしれない。

私が思う、今の状況が辛いなら別の方法としてこの方法はどう?は、もっと楽に軽やかにハッピーに一緒に過ごしたいという提案で、
だけど母にとっては違って。

違っていても良いのだけど、お互いの中間の良い方法を探りたいのだ。私は。
でも母は、母の世界にあるもの以外は自分の世界に増やす余裕がない。

母は母で精一杯で、
私の提案は母の中になくて、違うもの。

違う事じゃなくて、私の意見を1度受け取ってくれる事なく跳ね返されるのがさみしい、かなしい。
自分はいない方がいいんだな、と感じてしまう。

うまくやっていきたいだけなんだけどなー。

そんなこんなのギリギリ状態が妊娠中から続き、なんやかんやと6年近いんじゃないか。そんな中、私の養分として支えてくれたのは服だ。(もちろん旦那もだけど。旦那がいなかったら私、大変。)

着て行く場所がなくなった服たちは、私の為の、己の為だけに着る日常の皮膚として、おまもりとしてそこにある。

元々古着が大好き。
お金やブランドで価値をつけている服に興味がないので、リサイクルショップやメルカリで掘り出して3ケタ程度の服たちを養分としてコレクションしてきた。
レッドブル的なもの。

弱ると部屋で新たにコーディネートを!と着まくる。ちょっと生き返る。私と共にこの数年を歩んできてくれた服たち。

私を、支えてくれてる服。
この値段でこの尖ったデザインは出物だ!掘り出した!の喜びがクセになる。
(メルカリは1000円あれば、だいぶヴィンテージ感ある古着に出会える。古着屋で探すのはちょっと違う。ヴィンテージ好きなくせに古着屋が好きな訳ではない偏屈な自分。)

私が私をつくる。
私がつくる私の日常の中に、実父母とのちょうど良いやり取り、というのもやっぱり存在していてほしい。

傷つけたいわけじゃ無い。
でも、受け止めて欲しい。
わかってくれなくてもいい、ただ、そーゆー風に考えていたんだね、と一度私の思いを手に取ってほしいと願ってしまう。

ただ、それは、
あの人たちの中には無い人間性(私がそうさせていて、私に対してだけなのか、2人それぞれずっとそうやって生きてきたのかはわからない)なのだ。

変わってほしい。
と、思ってしまうけれど、
きっとそれは傲慢な話なんだろう。
私が、そのままの父と母を受け入れなければ、距離をおく選択しか出来ない模様。

ただ、うんうん、そーなんだねって聞いて欲しいだけなんだよ。
私が、気を遣ったり、自分を殺した状態じゃないと会話出来ないような関係はもう嫌なんだよ。

そう願うことは贅沢で傲慢で我儘な事なんだろうか。自分が親になってみて、そんな親子関係は不健全じゃないかと気がついたんだよ。
難しい。わからない。

好きだし、嫌いだし、
親に対する感情て、なんて難しいんだろ。
感謝もしてるし、でも私にとっては、その態度は傷になる。

それを伝える事で傷つける。

ぐるぐる、ぐるぐる
何処にも辿り着かないで、
勝手に膨れ上がる「家族像」に夢を馳せている。

じーちゃんがいて(父)、ばーちゃんがいて(母)、私と旦那と息子がいて、妹夫婦と双子の甥っ子がいて、食卓にご飯が並んでいて、談笑しながら食事をする、というのが日常にあったら良いなーと描きながら息子が産まれて5年半。

1度もそんな機会はないし、
そもそも父母私妹の食卓は最後にいつあったか思い出せないし(10代にあったのか?4人のご飯の図が浮かばない)、実家とされているあの家の中でも父と母2人の食卓もない。

それを望む事が、
多分うちの家族にとって、望む事自体面倒な意見。
しんど。

なんで実父母とコンタクトを取るたびに、
メンタルやられて、這い上がるための努力をしなきゃいけないんだろ。
なんか、ハードモード。ただまぁ、だいぶ強くなった。もう寝込まないし、泣かないし、1週間動けないだとかもなくなったな。

さて、今日のあーだこーだで母の自己卑下で終わっている一件。私が謝ったり、あーだこーだしたり、またしなきゃいけないのかなぁ。もうやりたく無いなぁ。でも、このままなのも嫌だなぁ。

もーなんでもいーや。
明日なに着よう。
寝れず。
めんど。これ、答え、何?まだまだ足りない時間なのかしら。