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「やさしさ」の種類の話

こんにちは。普段は映像制作だとかデザインだとかをしている藤原です。
物事について深く考えることが趣味で、わからないことはわかるまで調べつくして自分が理解、納得できる形に落とし込み自分の意見にするということをしています。

さて、今回筆を執ったのはとある動画を見て衝撃を受け、これは自分の思考をアウトプットしないともったいない!と思ったのがきっかけです。
その動画がこちら↓

紫藤ナナさんという自称オタクに優しい波瀾万丈系ギャルの方。自分はたまたまYouTubeのおすすめに流れてきて出会いました。まず惹かれたのはサムネイル。『同情的優しさ』という文字がまず視界に飛び込んできて一気に興味が湧きました。今までの自分は「やさしさ」というものは弱きを助け、相手に寄り添い続けること、ざっくりまとめると甘やかすことで、決して突き放すようなものではないのだと思っていたのです。若干語弊はありますがそれがつまりこちらの動画で言う『同情的優しさ』なのだと知りました。

こちらの動画では『はっきりとした優しさ』と『同情的な優しさ』があり、前者はたとえ相手にとって辛いことだとしても相手のためになるようなことをすることで、後者は相手のためになるかどうかに関わらずその場凌ぎのものだといった感じのことを話しています。

ただ、先に書いておきますが私は『はっきりとした優しさ』と『同情的な優しさ』の二つだけしかないとは思いません。この問題に限らず相反する二つの間には限りなくグラデーションが存在しており、それを咀嚼して理解し使いこなすというのが大切だと思っています。ただ、こういう話をするときはグラデーションを省いた方が伝わりやすいので、便宜上この記事でも省きます。

自分の母は過保護で、「いやそこまでしなくていいよ、私はなにもできない赤ちゃんじゃないよ。信頼してくれないの?」と言う度に「信頼はしている。ただ心配(不安)だからいろいろあなたに言っている。鬱陶しく思うかもしれないがそれは信頼していないということではない。」といったことを言われていました。また、アルバイト先で友人と一緒に帰る約束をしたため夜遅く(23時)ごろまで家に帰らなかったり、もう一つのアルバイト先が居酒屋で、日付が変わるくらいに帰宅することが増えてきたりすると鬼電がかかってきて「お前が帰ってこないと心配で眠れない。お前のせいで寝不足だ。」と言われたこともありました。高校生でもないのに。
他にも小学生のころ友人としていた交換日記をダイニングに置いていたら母に見られ、母が不適切だと思う内容を黒いマジックペンで塗りつぶされてしまい、それがきっかけでだんだん交流がなくなってしまったこともありました。高校生になってからもLINEを監視されていたこともありました。
どれも「やさしさ」ではあったのかもしれません。母からすれば私のためを思ってあれやこれやと手を焼いてくれたのでしょう。ただそれは私が必要としていた「やさしさ」ではありませんでした。信頼されているとは思えませんでした。そして私は今も母のことを信用できないし嫌いです。

この記事を読んでくださっている方の中にもこういった親御さんを持つ方がいらっしゃるかもしれません。私の周りにも割といました。
なんでもかんでもやってあげる。自分の目から見て危険と思われるものからは遠ざける。果たしてそれは正解なのでしょうか。生後間もない赤子ならまだしも、それはわが子の成長を阻害すると同時に目を背けていると言えるのではないでしょうか。
「獅子は我が子を千尋の谷に落とす」という言葉があります。これは獅子は生まれたばかりの子を谷に突き落とし、這い上がってきた子だけを育てるという言い伝えから転じて、本当に深い愛情を持つ相手であればわざと試練を与えて成長させること、またはそうするべきであるという考え方を指します。

それを踏まえて私は人が成長するのは失敗が成功に変わったとき、できなかったことができるようになった時だと思っています。やったことないけどなんかできた!は成長ではなく、本人の素質によるものであり成長に関与しないと思っています。
例えば最初に貰ったポケモンと旅を進めていくうちにレベルが上がり進化していくように、努力したからこそ成長という現象が起こると私は考えています。だからこそ努力(苦労)しないで済むようにあれこれ手を焼くのでなく、たとえ口を出したくなっても放っておくというのが正解の場合があります。

もちろん、寄り添う優しさが正解の場合もあります。
例えば落ち込んでいるときに「〇〇しないからだよ!」「〇〇したらいいんじゃない?」とドストレートド正論パンチなんかされても「〇〇できなかった/思いつかなかった自分はなんて無能なんだ…。」と思ってしまうかもしれません。そういう人が欲しいのは解決策ではなく解決に向かえる精神状態なので、いくら解決策を提示したってその人の肩に乗る重しを増やしているだけです。その人のためにならないし、これから相談しようという気さえ奪う行為です。
それ以外でも、人に話すとすっきりするからアドバイスをするのでなく話を聞いてほしいというだけの人もいます。実際「一人で頭の中でぐるぐる考えるよりも人に話して情報を整理する方が良い」と言われています。私もそういった経験がありました。友人は話すだけ話してすっきりした顔して帰っていった私に苛ついたことでしょう。ちょっと申し訳ないです。次からこういう時は「一人で考えてても答え出ないから話聞いてもらってもいい?アドバイス欲しかったら話し終わったときとかに言うね。」と前置きします。皆さんもぜひどうぞ。

ここまで自分の意見をアウトプットしていて気が付いたことがあります。
それは、「『同情的優しさ』は、相手の成長する余地やできた!という達成感に加え向上心などを奪ってしまう場合がある」ということです。

ちょっとこのケースには前提条件が当てはまらないのですが、私が高校受験で第一志望の合格発表に母といった際に、私より先に受験番号を見つけて「あった!」と喜んだんです。私はその時に「試験日の一か月前から苦手な数学だけを死ぬ気で勉強した第一志望に受かった喜び」と「この学校に入学してこれからがんばっていくぞ!という気持ち」が消え失せていくのを感じました。部活動を引退した夏から塾の自習室が開いてから閉まるまで、一日十時間以上も勉強して頑張って膨らませてきた風船から空気が抜けてしぼんでいく感覚でした。母はそのときに謝ってくれましたが、真犯人のネタバレをされた買ったばかりの推理小説のように、もう純粋に喜べませんでした。自分のことのように喜んでくれるのはうれしいですが、高校受験なんてだいたい一回しかないんだからちょっと後ろから見守るだけにするくらいにしてほしいものです。たぶん私はこのことを一生忘れられません。
そしてこれをきっかけに母親に対して違和感を覚えていくようになりました。と続けたいところですが、過保護な親の話については別の記事にしたいと思います。

そんな母親に影響されたのか、私は紫藤ナナさんの言う『同情的優しさ』を正しい優しさだと信じていました。『はっきりとした優しさ』はその人のことを思って心を鬼にした結果だとしてもそれは優しさの皮を被っただけの刃物とさえ思っていました。慰めや哀れみだけが優しさなのだと思っていました。信じていました。

しかし私も歳を重ねて大人になっていきます。小学生、中学生と成長していくうちに、「あれ?もしかして辛かったね悲しかったねというだけが優しさじゃないのか?親のやり方が間違っていただけで、厳しくする優しさというのも本当に存在するんじゃないか?」と思うようになりました。
ざっくり言えば飴と鞭みたいなものですが、適材適所や得手不得手という言葉が存在し、錬金術は完成しませんでした。それがすべてです。すべての病気がたちまち治る唯一の万能薬なんてものはこの世に存在しません。この症状ならこの薬を、その薬が合わなければ他の薬を試していくように、その時々に適切な言動というものが存在します。

私は中学生になって自我がある程度育つまで「やさしさ」は同情的なものだけでないと知らなかったし、場合によって適切な「やさしさ」が異なるなんてゆめにもおもっていませんでした。
そして、今回紫藤ナナさんの動画を見るまで「やさしさ」というのはふわふわした概念が一つあると思っていて、複数個あってそれぞれ適切な用途があることを理解できていなかったのです。
所謂「コミュ強」、コミュニケーション強者の方々からすれば「そんなのあたりまえじゃん!」と思うかもしれませんが、中学校卒業間際になるまでは「なんかこれ嫌だな…」ともやもやすることはあれど、自我が育っておらず読書と部活動、勉強に没頭していたため現実を見つめることができていませんでした。だから未熟だった私は自己犠牲的に自分を切り売りして「やさしく」していたので舐められて面倒ごとを押し付けられたり悪口を言われてないことないこと噂を流されたり都合よく利用されていたことに母に指摘されるまで気が付けませんでした。もちろん今は自分を安売りすることなく二つの『優しさ』を使い分けています。未だ仲良くなると安売りしそうになりがちですが…。

長くなりましたが、私は課題を見せてくれと言われた時に「いいよ~」と快く見せるのが『同情的優しさ』であり、「別にいいけど、見せたらあなたのためにならないからわからないところがあるなら教えるよ」と言うのが『はっきりとした優しさ』である。というのが割と良い例えなのではないかなと自分では思います。
「今回の課題を出せればいいからその場凌ぎで写させてあげよう」ではなく、「今回限り課題を出せて期限内に間に合ったとしても、この課題をやらなかったせいで次の課題や授業の内容がわからなくなっても責任が取れない」と考えられたら素敵ですね。

このように、「相手のことを親身に考えて、真に相手のためになる対応をする」というのが『優しさ』であり、それを考えずにギブするだけなのは『優しさ』ではないというのが私藤原の結論です。
最初の方に書いたように、二種類の優しさにはグラデーションがあり、単純に二極化できないことではあります。相手ために考え言葉を尽くし真摯に対応すればきっと物事が良い方向に進むと信じています。

これを書いていて自分の思考の脱線具合に呆れつつ、口に出さずともモニタの前でキーボードを叩いていれば思考はある程度整理されるのだなあと実感しました。普段Twitterばっかり見ていて気がめいってしまう私にnoteは必要かもしれません。半デジタルデトックス的な感じで。気軽に呟いても記事を選択しないと詳細が見られないnoteだからこそ落ち着きますね。

それではまた。


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