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悪夢

一体何度目になるのか、深夜に車で人を轢いた。原因はいつもと同じ、ブレーキの故障だった。
事故を起こす瞬間は焦るものの、血に塗れ倒れている女性を見ながら警察の到着を待つ頃には、"ああ、これはいつもの夢じゃないか"と気付いて冷静になっている。
場所だったり、車種だったり、轢く相手だったりはまちまちだが、ブレーキが効かない〜警察が駆けつけるまでの流れはテンプレートだ。
この日いつもと違うことがあるとすれば、目撃者がいたことだった。

「なんでそんな冷静でいられるの?」

震えた声で僕に話しかけたのは、水野だった。
彼女は近所のカレー屋の店員だった。常連の僕は店で何度か顔を合わせる内に話すようになり、たまに2人でカレーを食べに行っている。
2人とも大のカレー好きという訳でもないのだが、水野の偵察と研究を兼ねてここのカレーはスパイスがどうたらと、それらしい事をよく語り合っている。
彼女には長い間付き合っている恋人がいて(消防士だった気がする)、「結婚するなら彼しかいない!」と笑顔で言いながらも、その後進展したという話は聞いていなかった。

「ねぇこっち来てよ」

いつの間にか水野は轢かれた女性の前にしゃがみ込んでいた。
赤黒い血の海の中から、水野はカレースプーンを取り出した。

「それはお店の…」オリジナルカレースプーンだ。
「この人はね、お店の常連さんなの。こんな良い人をなんで殺しちゃったの」
「悪いとは思うけど、事故だったんだ。ブレーキが効かなくて」水野に責められると心が痛む。
水野はスプーンを使って、左手に持った真っ白いカレー皿に血のルゥを流していった。
「結婚するなら彼しかいないの。君とは付き合えないの」水野は涙を浮かべてカレー皿を赤黒く染めていった。
やがて血のルゥは皿を溢れ、水野の全身を徐々に赤く染めてあげていった。水野は全く構わない様子でスプーンでルゥを掬い続けた。

流れ出した血は徐々に夢世界全体を覆い始めていた。僕と水野(と死体)までの距離は5メートル程あったが、視界のほとんどは嫌な濃度の赤に浸食されていた。
早く目覚めないかと焦り始め、心が赤の恐怖に染められた時、水野が目の前に立っていた。

「ねぇ、今度は君のおすすめのお店に行こう。奢るからさ」
水野は目を細めて笑い、真っ直ぐ僕を見て言った。
いつの間にか世界は元の色彩に戻っており、徐々に輪郭を失っていった。

目覚めた時、まず時計を見た。起きる時刻の30分前だった。次に枕元のスマホを確認したが、新しいメールは届いていなかった。
今朝の夢について考えてみた。
水野とは最近連絡を取っていなかった。夢に倣ってご飯に誘おうかと思ったが、この間消防士の彼と婚約したのだと報告された事を思い出した。

彼女の笑顔を思い出し、報告された時の戸惑ったような顔を思い出し、もう一度今朝の夢を思い出した。
彼女のことをぼんやりと考える内、目覚ましがけたたましい音を鳴らし、悪夢の到来を告げた。

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