響く
とんとんとん
耳に残るのはメロディーでも音色でもなく、隠されて響く打鍵の音だった。
ピアノを形作る木と木が擦れる音、押し込む際に圧縮される空気が漏れだす音。白と黒の鍵盤を打つその強さやリズムで、妻の機嫌は聞き分けられる。
良くない夢を見ていた気がしたが、目覚めてしまえば何ということはない。ピアノの音に耳を澄ませばすぐに忘れてしまう。
私に音楽の素養はないのだが、何度も妻に教えられ、作曲者くらいは判別できるようになった。恐らくこの曲はショパンの、第何番何とか長調というやつだろう。透明な水面の中で小さな水草が揺れる穏やかな小川の流れを連想させる。目覚めにぴったりの選曲。
静寂。
とんとんとん
別の音が響く。妻が階段を登る音。スリッパと木の接触する音。
「ご飯作っておいたからね。私はそろそろ出掛けるから」
妻が廊下から顔を覗かせる。私は布団を被ったまま生返事を返す。
「うん、ありがとう。行ってらっしゃい」
「今日は晴れそうだから、洗濯だけよろしくね」
天気予報は雨だったのにね、と残念そうに呟き、階段を降りていく。
とんとんとん
何が不満だったのだろう。洗濯物は庭に干せるし、煩わしい傘なんか差さなくて済む。
玄関の鍵がかかる音を聞いてから、3度寝返りを打ったところで眠るのを諦め、起きることにした。
一階のリビングのテーブルには空の茶碗となめこの味噌汁、きゅうりと白菜の漬物がラップされ置かれていた。小食な私にとっては十分豪華な朝食だった。
テレビを点けると、気象予報士が晴れやかな笑顔で予報が外れたことを謝罪していた。晴れようが雨が降ろうが外れれば謝らなければならないことに同情しながら味噌汁を啜った。
頭の中で今日のノルマを整理している内、ふと視界にピアノが映る。部屋の隅にひっそりと佇んでおり、妻が毎日きちんと手入れを欠かさないため埃一つ付いていない。よく見ると閉ざされた鍵盤台の上に、一枚紙が乗っている。妻の忘れ物だろうか。近付き手に取って裏返すと、どうやら私への手紙であることが分かった。
あなたへ
しばらく家を留守にします。
しばらくと言っても、もう一度戻って来るかは私にも分かりません。
お元気で。
非常に短く、簡潔な文章だった。何かの冗談かと思ったが、妻はそれほど悪趣味ではなかった。
手紙を何度か裏返して点検してみたが、他にメッセージは隠されていないようだった。
気が付くと手紙を持つ手は震え、嫌な汗が全身に広がっていくのが分かった。
とんとんとん
静まり返った室内で、ただ、自分の鼓動だけが響いていた。
とんとんとん
打鍵の音が響く。
とんとんとん
打鍵の強さやリズムで妻の機嫌は聞き分けられる。
とんとんとん
今日は、どんな音だった?
とんとんとん
音は思い出せるが、妻の顔は黒く塗りつぶされていた。
とんとんとん
とんとんとん
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