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2022.11.14


やっぱり人、ひとりの死の知らせはとてつもない力を呼びさます。

もう十年、下手したら二十年くらい会っていない伯父さんが、先月亡くなっていたことを知らされた。

どうやら、この数年は病気がちで身体も相当きつかったことが分かる暮らしぶりだったようだった。特に、誰かに語り明かされることもなく…
現在、その身のまわりの片付けに追われている母から電話があった。

どうやら、インターネットの解約についてどうしたらよいのかに、戸惑い引っかかっているようで、そのことをきっかけに、今しがた連絡が来たようだった。

私も、だいぶ自分の生活ごとすら偏って疎い方だし、今ではほとんど聞かないような古い通信会社?名称?だったりでさっぱり訳が分からないけど、スマホで何かを検索することは、母より抵抗感少ないだろうし、怖くはないから色々みてみるくらいはしよう。

ふしぎなもので、仕事前にボクシングジムに行こうと重い腰をあげる直前だったので、話の内容も内容で、ゆっくりと話すこととなった。

母からの着信は、身内の構成や年齢層的に、いいニュースも偶にはあるかも知れないが、誰かの身に何かあったのだろうという覚悟が、電話を取る前に強いられる。

交友関係も元々そんなになかったところに、この十年なのか、二十年なのかよく分からない間に、割と早い段階から、世の中に置いてけぼりにされ、両親とはこの七、八年でやっと生きていることを認めあえる関係になれたかな?と自分では思うことが出来てきただけで、親戚関係は殆どが疎遠だった。

伯父さんは、たしか6人くらいの兄弟の末っ子だった母の一番年が近いお兄さんで、それぞれがふるさとを飛び出し、関西で名の知れた大学、短大を経、東京に出て暮らしていた二人は、文学、映画好き(謙遜して'かぶれ'と自称していたタイプ)という点や、性格が互いの影響を受けていてかどこか似ていた。人とベタベタしたり、やかましくする気配は一切なく、話に聞く通りの、本の描写に出てきそうな地方のインテリ家系の末裔っぽさを、少なくとも会っていた頃は、自然と醸していて、今思えばちょっとふしぎな雰囲気の人たちだった。

まだ私だけがこどもだった平成初期の頃までは(両親はその後やがて沈む泥舟のことを少しは予期していたのだろうか)、年に一度の正月、誕生日祝いも兼ねての金額であった一万円の入ったポチ袋を必ず忘れずに、痩身で背丈は高い方だったか、いつも革ジャン姿で 警視-Kの一般人に扮したかのような犯人役の緒方拳のつけていたような眼鏡を掛けて、たしか当時は登戸の方から松陰神社前と世田谷の間にあって夜逃げするまでの間は、私のわがままとヒステリーで居直って無理に住んでいたマンションに、毎度スピードの出るバイクで颯爽と現れた。

年賀状やポチ袋に書かれた文字も、母のものとよく似た几帳面できれいな文字だった。今のわたしによく似ている調子者風情な酒呑みスタイルの父ともタイプは違えど、和やかな様子で酒をよく呑み交わし、あまり人前では食べないのか、煙草をよく吸っていた印象。

伯父さんの恋人の話は、こどもだてらに少し小耳に挟んだり、その話はある年には禁物になったり、やはり生涯独身だったようで、どうやら、どうしてもさいごまで孤独に、真面目に暮らしていたようなことを、NHKへの愚痴や該当の区役所、保険課の人には親切にしてもらっているという情報をもとに矢継ぎ早に説明された。

二十年前は、コピーライターではなかったし、何だったか思い出せないけど、書籍にまつわる仕事をフリーでしていたはず。お金も沢山それは沢山借りていたのは知っている。というか、誰にも返せてはいないだろうけど煩く言う知り合いは誰もいなかった。誰も言えはしなかっただろう。業者しかそこは言わない。黙って静かに時々、引越しや誰かの病気や何かのきっかけで連絡を取り合ったり、住所を知る間柄の親戚や知人、職場の仲間が在る。互いが知らない間に、同じような時代に沿った苦難を噛み締めながら、何事もなかったかのようにこの十年以上下手したら二十年近い時を生きてきているらしい。

どうやらそんな感じの人が両親のまわりには多いらしい。どこぞの社長さんたちも、後輩の方も、飲み仲間の友人もひとりひとりあちら側に…という話をコロナ前に一年に一回くらい顔を見せに行く度、歩いている時などに聞かされてきた。気さくな写植屋さん(渋谷道劇の寮のあったビルで商売されていたので、父の手伝いなどでこどもの頃には出入りしていた)は、数年前にお元気そうな変わらぬ姿を、神泉のかつての縁の赤提灯に母と、父が死にかけて憔悴していた頃に血迷ってヤケになって突入したら偶々遭遇した。もうとっくに早い段階で職業を変えた人と聞いていた。今も元気で、今もイラストの仕事(?仰天。開店もあやしい無期限休業の表向き)を下さり、変わらず父の何かを支えてくださるのは弁護士の先生一家だけだそうでもはや奇跡。


このところ私が碌に読めてはいないけど、本を書籍をとむさぼっていたのは…

私はやっぱりどこか薄ぼんやりしていて、きっとそれは長年かけてできている防衛機能か何かが働いているのか、生き生きとしたもの(に見せかけている手っ取り早なチープな刺激)への興味は薄く、どちらかといえば今年の怪談の仕事は本当に肉体も精神もキツかったけれど、(さいごに浮かび残る怨念に行き当たったのだけは土産だったかも知れない)あちら側に寄り添う生き方だと思う。昨年の伊豆山土砂以降は、虫、鳥、動物、草木、それもあまり人間や家寄りではない、野の、町のものとしか心が通わなくなっているのを感じているし、彼岸の物語、人間の営みを愛して生きるためだけに、そのエネルギーを確保するくらいにしか、懸命になれない。もっと懸命になって、死ぬくらい躊躇わずにやらないと、多分くたばる、というのが最近分かってきました。

父や伯父さんと同じように、母に荷物を片付けさせるのだけは避けなければと頭では思うけど、果たして行動に移せるのやら・・


気高くて物静かでチャーミングで派手さはないけれど、知的で洒落たおじさんだった。


たくさんあるらしい書籍の中から誰かの乳首が写ったポラロイドが挟まっているのが、見つかったりってことはないだろうか…

少しだけ、妄想してしまう。

私の知る二十年以上前のおじさんでは、ちょっと神経質すぎて場にそぐわないような感じだけど、きっと今は当時と違っていただろうし、引退されたお姐さんのお客さんでちょっと前までたまにお見かけするお客さんに髪型と話し方と顔がだいぶ似ているなぁと、そのお客さんをお見かけする度に思っていたのを思い出した。

どうか、安らかに


妄想により浮かびあがる現実を踏まえ、ポラの類をどうにかしないといけないのはお客さんよりも自分なのかも知れない


さいごにこんなヘンテコな妄想に巻き込んでしまったけど、決して自分ではない、○○お姐さんのステージをみていたら心が癒されただろうなぁ…とかの妄想をしてしまう。それは、両親ではなくて、ちょっとした他人で、おじさんの時間は分からないけれど、わたしの時は止まっているかも知れないけれど、確実に素養があるのを知る、大々的にではなくても味方になってくれそうという淡い期待だったり、そんな私の願望の対象にあたる数少ないというか他にはない存在なのかなと思うから勝手な妄想が広がっている気がする。

すっかり疎遠になってしまっていたのには、自分の職業に対する壁があったからだったけれど、私にとっては数少ない家族の付き合いを、十年近くに渡ってはしていた人の一人だったので、何かのきっかけで年賀状のやりとり位は再びできていたらと、ほんの少しの勇気や元気や勢いを持って踏み込んでいてもよかったお相手だったのだと、今となって思うのでした。お相手の世代や性格や環境を考慮するに、踏み込む勇気を持つこと等、色んな意味で考えにも及ばない親類ももちろんいますが。

百人一首の練習のお相手してもらったこと、バイクのうしろに何mかだけのせてもらったこと…わりと高額なお年玉を喉から手が出るほど欲しいのにその素振りを隠そうとして全く隠し切れていない幼少期からの私の俗物性を心底面白がってくれていた好きなタイプの笑顔くらいしか直接の記憶はないけれど、母から語られるエピソード、母の本棚、母の映画ノートを通じて伺えるおじさんの影が浮かびあがってくる日です。

どうやら、本よりも母もびっくりする映画の資料の量と内容だったそうで…

遠くから念を少しずつ感じはじめました。

念なんてあるかないかも分からないし、役に立つことは何もできませんが、今のわたしにはそのくらいしかできません。

高齢の両親親戚らに代って、おじさんと母の故郷の鳥取へ何かをお届けにゆく位ならこの先できるかも知れないので、しばらくもう少しだけシャンと生きてみることを心掛けます。



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