ビジネスメンター帰蝶の戦国記⑨

あらすじ 
 主人公・濃姫(胡蝶)がメンター、織田信長がメンティとなり、壁打ちしながら戦略を組み立てる戦国ライトノベル。歴史を楽しみながらビジネス戦略の基礎知識に触れる事ができます。
 第3章は胡蝶輿入れ後から岩倉城の戦いまでの尾張統一を描きます。時期は1章と2章の間になります。信長さんと胡蝶さんの苦難の道のりです。いわば、ベンチャー企業の産みの苦しみです。今川氏に仕掛けられて対応しているので、どうしても、戦略より受け身対応になります。


第3章 尾張統一
  ~弱者の生存戦略~

第3節 不足分を信頼できる外部に求める・村木砦の戦い

 1554年(天文23年2月)、今川義元の嫡子・今川氏真と北条氏康の娘(早川殿)の縁組がなされる。これで北条と今川の合戦は完全に手打ちになった。これは今川に助勢した武田信玄の仲介でもある。これにより、甲相駿三国同盟が成立した。今川義元は北条と小競り合いを繰り返しながら、着実にその力を蓄えてきた。そして、尾張から見て今川の背後、北条・武田と同盟を結んだのだ。
 これで今川義元が軍を動かすとすれば、唯一の出口が尾張方面。事実上、尾張に対する宣戦布告であった。しかも、この時まだ萱津で戦った坂井大膳は織田信友とともに清州城に居座り、信長の背後を伺っている状況である。

村木砦の場所(左拡大図の赤矢印)

 織田家にこの情報が届いたのは、1月下旬に入った頃であった。武田信玄が今川と北条の和睦と縁組をとりなそうとしている段階で情報が流れてきたのである。北条側としては、少しでも良い条件を得る為に粘り強く交渉をしており、時間がかかっていたのであった。
「聞いたか、胡蝶」
「はい。全く武田晴信という男は余計な事をしてくれます。破談になれば良いのですが」
 胡蝶もムスっとした表情で答えた。
「今川義元には既にこうした目論見があったのだな」
 三河から尾張にかけて今川と織田が調略合戦をしており、さながらオセロゲームのようであった。そんな中で織田に与する事を決めていたのが、織田信秀の時代から縁のある水野信元である。
 しかし、鳴海城、大高城、沓掛城が山口親子の謀反で今川に獲られ、水野信元の刈谷城、緒川城が今川方の中に徐々に孤立する格好となっていたのだ。その水野信元の緒川城近く、村木村の岸に今川方が兵を伴い砦を築いていた。それが村木砦である。それに気付いた水野信元から信長の元に救援要請が届いていたのだった。
「村木砦は水野殿への脅しだけでなく、織田攻めの第一段階なのでしょうね」
「織田を攻めるなら、街道を経由して鳴海城に入るだろう。それを背後から襲える位置に信元殿が居る」
「つまり信元殿が健在の間は、いきなり尾張に攻め込まれる事は無いと思って良さそうですね」
「まあな」
「でも放置できませんね」
「清州を先に片付けたいが」
「それで間に合うのですか。信元殿が落ちれば手遅れです」
 実のところ、約半年近く前から水野信元は救援要請をしてきているのである。にもかかわらず、清州城を先に落したいために、『砦を作らせてから獲ってしまおう』と言い訳していたのである。
 信長には信長の優先順位があり、客観的な環境分析が疎かになる傾向がある。まさにグレシャムの法則の典型的行動である。外部環境の方が先に大きく変化してしまうと、取り返しがつかなくなる場合がある。

グレシャムの法則
「目先の仕事(出来事、短期的仕事)に集中し過ぎると、
   将来の仕事(長期的仕事、本来やるべき事)が犠牲になる」

 今回、甲相駿三国同盟が明らかになり、水野信元はいよいよ切羽詰まってきたのであった。それは即ち、信長にとっても緊急事態を意味していた。「良い手はあるか?」
 信長も状況が悪い事を認めざるをえなかった。
「残念ながら、・・・」
 二人は口にこそ出さないが、弟・織田信行やその家臣・林秀貞が信用できない。そのため、確実な一手が思いつかないのである。
「そうか」
 信長が力なくつぶやいた。
 二人の間に沈黙が流れる。そして、胡蝶が重い口を開く。
「ただ、ひとつだけ・・・。信長様は嫌かもしれませんが」
「何だ。言ってみよ」
「私の父・斎藤利政に援軍を頼むのです」
「・・・」
 信長が自らそれを言い出す事は無いと胡蝶は分かっている。信長は斎藤道三(利政)を完全には信用していない。
 しかし、胡蝶は違う。
「赤塚や萱津のように全軍で今川軍に対抗すれば那古屋は手薄になります。平手政秀殿はもう居りません。背後の坂井大膳が出れば私が討たれます。
 私が討たれたら父も黙ってはおりますまい。尾張に攻め込んで尾張を獲ってしまうでしょう。娘の敵討ちを大義名分に坂井大膳を討ち、そのまま尾張を支配しようとするでしょう。私ならそうします。
 だからと言って、村木砦が完成した今、全軍で攻めなければ、砦は落とせないでしょう。こちらが出陣したと知られたら、数日で敵の援軍が来ます。長くても二日以内に落として占領し、敵の援軍に取り返されないようにしないといけません」
「・・・」
「全軍で戦って尾張をマムシに獲られるか、軍を分けて今川義元に尾張を獲られるか。どちらにしても信長様も私も生きてはおりますまい」
「・・・」
 再び、二人の間に沈黙が流れる。そして、今度は信長が重い口を開く。
「信用してよいのか?」
「信用して頂くしかございません。何のために私がここにいるのですか」
「・・・」
 胡蝶は信長を睨みつけた。
「分った。義父上に援軍をお願いするとしよう」
 信長がそう言うと、胡蝶は女小姓の葵を呼びつけた。葵は胡蝶が美濃から輿入れした時に一緒に来た女小姓であり、間諜、即ち、くのいちであった。
 時々、葵は美濃に戻り、斎藤道三に状況報告をしていた。もちろん、信長には内緒である。(信長は気付いていたが・・・)
 信長が道三への書状を書くと同時に、胡蝶も書状を書いた。
「これらの書状を父上に」
「承知いたしました」
 軽く一礼すると、葵は書状を懐にしまった。
「では、失礼いたします」
と言ったかと思うと、足早に走り去った。
 信長は、さらに織田信行、織田信光にも出兵の書状を送った。もはや今川の軍門に下るか、尾張を維持できるかの瀬戸際なのである。

 1554年2月21日、織田信光の兵300、林秀貞と林美作守兄弟の兵500が集まった所へ、美濃から安藤守就が兵1000を引き連れて到着した。それを見た林兄弟は、斎藤家と一緒に行動する事を拒み、林家の与力、前田与十郎の城へ引き上げていった。林兄弟は、多くの友人や親戚が加納口の戦いで斎藤家に討ち取られており、斎藤家・美濃勢を嫌っていた。そのため、胡蝶に対しても冷たい、というよりも、敵視してきたのである。
 林兄弟の対応は、胡蝶の予想通りではあった。だが、これで林兄弟の兵は500程度であり、経験豊富な安藤軍1000が居れば、万一、坂井大膳と林兄弟が連合しても、那古野城を守り切れる目処がたった。

 地理的には鳴海城、大高城、沓掛城が今川方であるため、陸路では足軽隊が今川方に察知されずに緒川城に行く事は不可能である。今川は織田の動きを警戒して、斥候を出しているからである。斥候に見つかると、直ちに援軍が派兵されてしまう事が予想される。その為、陸路を断念し、迂回して海路を選択せざるを得なかった。

陸路 or 海路

 那古野城を出た信長は、2月23日大風の中、海路を強行した。今川方も海路は想定していたかもしれない。しかし、このような大風の日に渡るとは考えず、警戒を怠ったのだ。そのため、今川方は援軍を出していなかった。
 2月24日、信長は今川方に気付かれずに緒川城に入る事ができた。水野信元から現地の状況を聞くと、簡単に下見して翌日に備えた。
 2月25日、夜明けとともに村木砦の戦いが始まった。村木砦は、北は攻め手がない天然の要害となっており、東が大手、西がからめ手、南がかめの形の大きな空堀となっており、非常に攻め難い形状であった。西を織田信光、東を水野信元に任せて攻めさせ、信長は一番難しい南を引き受けた。それが信長の示したリーダーシップ、或いは、責任感であった。
 今川方の城兵は突然の信長軍の襲来に驚いていた。それでも完成した砦や城攻めとなれば、数倍の兵力が必要である。堅固な城を攻めるなら5倍から10倍の兵が必要とされる。
 信長は約100人を那古野城に残してきたので、いつもの馬廻り衆が約600人、織田信光軍が約300人であった。これに水野信元軍約500人を加えて約1400人、敵が油断していたとはいえ、余裕がある戦力ではない。慣れない攻城戦であり、敵の援軍が届く前に落さなければならない。 
 信長は持ち込んだ鉄砲を撃ち続け、壁を上ろうとする兵を援護したが、多くの負傷者を出していた。

 1日かけた消耗戦は夕暮れに決着がついた。今川方の城兵も激しく消耗しており、持ちこたえられなくなったのだった。降参した今川方の城兵の謝罪を受け入れて許し、後始末を水野信元に任せると本陣に戻った。
 信長にとって、本格的な城攻め(砦攻め)は今回が初めてであり、同時に、これほどの死傷者を出した戦も初めてであった。居並ぶ負傷者、死傷者の中には、子供の頃から一緒に鍛錬してきた多くの馬廻り衆が含まれていた。この時の信長について『信長公記』は次のように記している。

    信長は、本陣に帰ってから部下の働きや負傷者・死者のこと、
    あれこれとなく言って、感涙を流したのであった。

 信長は那古野城に戻ると、安藤守就の本陣にお礼の挨拶に行った。

 もし、今川方が村木砦を作っているもっと早い段階で、村木砦を攻撃していれば損害はもっと小さく済んだ筈である。先に清州城の坂井大膳を討つ見込みがあったなら早く実行すべきであり、見込みがなかったなら早く美濃に援軍を要請する判断をするべきだった。信長自身それが分かっていたから、負傷者や死者を目の前にして、涙したのかもしれない。

 村木砦の戦いは、改めて信長に教訓と縁を残した。
 ・急を要する城攻めは無理があり、無理を通すと多くの死傷者が出る事。
 ・織田信行の周りにいる者は斎藤家を嫌っている事。
 一方で、
 ・織田信光、水野信元との協力関係が確認できた事。
 ・斎藤道三に対する信頼とその配下の安藤守就との縁。
 もし、斎藤道三が尾張を攻める気であれば、安藤守就は胡蝶を美濃に連れ帰り、尾張を攻める事ができたのである。しかし、それをせず、信長の期待通りに那古野城と胡蝶を守り、帰ったのである。

 本来、外部委託を決める前に考慮する事がいくつかある。
 最大のポイントは信頼関係である。外部委託する前から交流を持って、信頼に値する相手かどうか見極めておくのが理想的である。
 次に秘密保持。外部委託すると情報が洩れる。情報共有しないと外部委託の効果・効率が落ちることもある。しかし信用する事と情報漏洩防止の工夫は別の話である。もし可能なら、委託先を複数に分け、共有する情報も分割する。そして、統合しないと意味がなさない(可能なら、コア部分は社外秘にして、出した情報を統合しても完成しない)ように工夫したい所である。

 斎藤道三も安藤守就に田宮ら5人を付け、毎日の状況報告をさせていた。

 なお、安藤守就の報告を聞いた斎藤道三は信長について「恐るべき男だ。隣国には居てほしくない人物だな」と言ったそうである、と伝聞形式で『信長公記』に記される。これは田中牛一の演出(創作)と思われる。村木砦の戦いは正徳寺での会見の翌年である。もし、道三が信長を危険視していたのなら、安藤守就に戻ってきたばかりの信長を討たせていてもおかしくない。
 寧ろ、道三は娘婿の信長に好感を持っていたと考える方が自然に思える。何故なら、近年見つかった道三の書状は若造の信長を擁護しているからである。そして、この村木砦での援軍である。また、真偽の議論はあるものの『美濃一国譲り状』が京都・妙覚寺に存在する事である。他でもない斎藤道三・織田信長に縁のある妙覚寺に残っている事からも、本物と思わせる。 

 村木砦の戦いの半年後、織田信長は思わぬ形で清州の憂いを除く事になる。この年の夏、斯波義統しば よしむねの子、義銀よしかねが川に漁に出かけ、主だった屈強な者がお供について行った。これで守護・斯波義統の守りが薄くなったのを機会と見て、坂井大膳らが守護邸を襲ったのだ。
 この襲撃で斯波義統をはじめ多くが自刃して果てた。その報を受けた斯波義銀は、そのまま信長のもとに逃げ込んだ。守護を守る大義名分を得た信長は信行家臣にも指示を出し、清州に向けて出陣する。信行派である柴田勝家らも出陣している。これが中市場の戦いである。
 この戦いで坂井大膳は、多くの仲間を失った。清州城に戻った坂井大膳は清州勢の中でも支持を失い織田信光を頼った。しかし、織田信光は既に信長の盟友である。織田信光は信長と相談し、坂井大膳を誅殺しようとした。
 ところが気配を察した坂井大膳は逃亡し、そのまま今川義元の元に逃げ込んだ。この事から改めて今川義元の調略であったと考えられた。
 織田信光は坂井大膳と行動を共にしていた守護代・織田信友を切腹させると、清州城を信長に引き渡し、自分(信光)は那古野城に移り住んだ。
 その後、1556年1月に盟友・織田信光が不慮の死を遂げる。棚ぼた式に信長が清州織田家の盟主になり、事実上の大和守家側の守護代になった。

(ビジネスメンター帰蝶の戦国記⑩に続く)
(ビジネスメンター帰蝶の戦国記①に戻る)

参考:3章

書籍類

 信長公記       太田牛一・著 中川太古・訳
 甲陽軍鑑       腰原哲朗・訳
 武功夜話・信長編    加来耕三・訳
 姫君の戦国史      榎本秋・安達真名・鳥居彩音・著
 國分東方佛教叢書 第六巻 寺志部(政秀寺古寺) 鷲尾順敬・編

インターネット情報

道三の書状
 https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240424/k10014431231000.html

 Wikipedia


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