「作り変えることのできる社会システム:非常時に直面して」

出口の見えない新型コロナウイルスが引き起こしたこの情勢を、どのようにコントロールし、通り抜けていくのか。そのプロセスが次なる社会を形づくることは確かだと思われます。

科学技術の歴史はコントロールできなかったものをコントロールできるようにする挑戦の積み重ねであるともいえます。制御(コントロール)の対象が自然に近く、その挙動が能動的であるほど制御することは難しい問題になります。ウイルスという存在はまさに自然かつ能動的な制御対象であり、変化していく対象であるため、制御することは大変難しいものです。今の世界はそのような問題に取り組んでいます。

自由意志で能動的に活動する人間が構成する社会はまた難しい制御対象であります。しかしながら、社会は自然ではなく人工物であるので、自然と比較するとその複雑性には限界がありルールにおいて秩序を保つことができるものです。

いのちを守るための社会活動自粛は出口が見えないことには大きな不安感を人々に抱かせるものでしょう。そこに、「いのち」と社会システムのひとつである「経済」とを合わせて考えようとする力がはたらくかもしれません。ただ、自然である「いのち」と人工物である「経済」とは、設計図が未知なものであることと既知なものであることという決定的な違いがあります。規模が大きいだけに更新することに困難さを伴うものではありますが、経済システムは自然の法則のように固定化された前提で考える必要は、本来はないものです。科学技術的な介入しかできない話が通じないウイルスと異なり、科学技術という非言語的な介入に加えて法律という言語的な介入を行うことができる対象です。そう捉えると、いまの経済システムが平時を前提に設計されていることがそもそもの問題であって、どちらかを選択するような問題ではないことに気づけます。有事においても安定して機能できるような経済システムへの組み替え、はたらく人が不安を感じないように見通しが立てるようにすること、ここにもまた人類の英知を結集する必要があるでしょう。

1986年1月28日、当時アメリカで小学校の1年生であった私は、担任の先生、クラスメートと一緒に教室のテレビである中継を見守っていました。スペースシャトル・チャレンジャー号の打ち上げです。学校の先生が宇宙飛行士になったということで学校中がワクワクした眼差しで注目していました。しかし打ち上げから73秒後、わたくしたちの目の前でスペースシャトルは爆発しました。教室から音が消え、空気の動きが止まったようでした。担任の先生が言葉もなく涙を流しながらテレビの電源を切り顔を覆いました。そのまま子供たちは家に帰されたような記憶があります。目の前で起きてはならない重大なことが起き、それを突如として受け止めなければならなくなった人の表情を目の当たりにしました。

それから10数年後、大学の機械工学科の技術者倫理の授業で私はある事実を知ることになりました。チャレンジャー号の爆発に関するお話しで、チャレンジャー号の爆発事故は制御不能なものではなく制御可能なものであったことです。打ち上げ前に低温にさらされたチャレンジャー号はOリングと呼ばれる燃料漏れを防ぐ部品が、性能を保障できない状況となり、その状況を理解している技術者のロジャー・ボイジョリーは経営陣に打ち上げの中止を技術担当の副社長であるロバート・ルンドとともに訴えました。日常的な感覚や経験では、何か新しい試みを実行しようとすると、それが「安全である」ことを示すことが要求されます。しかし、経営陣からは、打ち上げが「安全でない」ことを示すよう要請されました。そして、NASAとの新規の契約を望んでいる、上級副社長のジェラルド・メーソンは、ロバート・ルンドに「技術者の帽子を脱いで、経営者の帽子をかぶりたまえ。」と言いました。そしてこの惨事は引き起こされました。

いま、世界中のいろいろな組織で、内容は異なれども大なり小なりこのような形の議論が起きているのかもしれません。ただ、このような議論が起きないように、そして安直にコントロールしやすい社会にならないように、そして誰もが生きやすいように、作り変えることのできるシステムをアップデートしていくことが人類の目指す方向でしょう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?