奪う奪われるをやってきた人間からまなぶこと
望遠鏡を宙に向けて星を眺めることと、地中深くの穴に埋まって空を仰ぐことには、似ているも似ていないもある。深過ぎれば天から光は届かず空は見えない。望遠を手放すことの出来る自由、広大一汎たる全体像やその可能性の有無。さておき奪う奪われるということを、生まれの由来や理由から、ずっとやって来てしまっている人間からは、それなりに空、宙、宇宙のことを、その闇の真中に舞い込んで来る幾つかの星座のことを、聞き取り、まなぶことが出来る。勿論その穴は、奪う奪われることの繰り返しで穿たれてきた穴なのであるから、その記憶の一々が層層に刻まれており、またはその記憶こそが層となって穴を作り上げたのだから、その穴の居住下に降りそこの主人と会話する、隣り合って言葉と視界を交わすには、それ相応の対価が要求される。事前時中に既に取り立てられる。対価や交換とは摂理であるが、ここの摂理は穴に切り取られた一個(だからこそ)の虚無として発生しており、その経過や経過によって得られたものを自らの全体とそれ以後の可能性に、有機的に繋げるには、思いを切って穴の外に跳躍をしなければならない。彼と想い交わした星座は以前としてそこにあり、それ以外の星座も、座に捉われない星々も、自らの限界と境界の限りに広がる悠久の空宙宇宙も、元の通りにそこにある。振り返り穴を覗くをしてもいいが、嘗ての友に君の顔は見えない。見えない顔が新月の闇となって彼に見えていた空を塗り潰してしまう、ので、振り返らずに歩み去るか地殻変動を招待するかが本当のおかえしとなる。
下降力とも跳躍力とも記憶力ともなるここのあらゆる力の源は、どうしたって感謝なんだろう。そしてこの二つの立場と力動は一人の人間渦中に分立して生起し得る。色んな空の眺め方をしたならば、自分の地球をゆすって穴を閉じよう。私達はそういう穴の幾千を自らに抱えている。本当だろうか。