【短編小説】如月美奈子の平凡な生涯

 如月美奈子の四十五年の生涯は平凡な物でしか無かった。

 上京し短大を卒業後出版社に事務職として採用され、社内恋愛の末雑誌編集者である如月総二郎と結婚。それは彼女が二十六歳の時だった。ただ、退職はしなかった。夫婦二人での相談の結果、子供は作らないと決めたからである。総二郎はその職業柄、不規則な生活から抜け出すことができずに自分が家庭を省みない父親になるという自己否定のため、美奈子は夫の意見に従ったため、そういう道を選んだ。

 子を残さないという選択は少しばかり二人に罪悪感を植え付けたが、総二郎の兄である和彦の家庭が二男三女の子沢山であり、また家も近いということで甥や姪がよく遊びに来たためその不愉快な感情が二人を苛む事は稀だった。

 美奈子が四十歳を迎えるころには総二郎も出世し、貯金もそこそこに都内でマンションを購入できた事もありとうとう退職する事になった。二十年弱続いた仕事から解放された美奈子は、よく昼下がりにベランダで紅茶をすすりながら、自分は随分と穏やかな余生を過ごすのだなと一人呟いた事があった。山手線の十一両編成が奏でる車輪の音を聞きながら、曇りがちな空を見上げて時間を過ごし、日が沈みかければ歩いて夕食の材料を買いに行く。総二郎の休みが取れたら、新婚旅行以来行けなかった海外に足を伸ばしたいなどと、年相応な夢を描いた。

 彼女は、夫を愛していた。少し抜けたところはあるが、根は真面目な総二郎を生涯の伴侶として選んだことは彼女の数少ない自慢だった。学生時代の友人にまだ恋人みたいだとからかわれた事があったが、むしろ彼女はそんな関係がいつまでも続くことを望んでいた。いい年をして二人で手をつなぐ事で周囲から冷たい視線を受けることもあったが、それでも恥ずかしがる彼の苦笑いが見れたのならそれでよかった。

 義理の兄である和彦に対しても不満はなかった。対照的という言葉がよく似合うぐらい総二郎と間逆の性格をした彼を迷惑だとは思っても嫌うような事はなかった。それは彼がある晴れた休日に、総二郎夫妻に頭を下げに来た時でもだった。

「母の面倒を見て欲しい」

 母とは、和彦と総二郎の実母である千歳の事だ。十年ほど前他界した千歳の夫が残した地方の家にずっと一人暮らしをしていたのだが、齢七十五にさしかかりいよいよ自身の面倒が見られなくなってきていた。介護というほどでもない、共同生活の頼みだった。いわゆる老人ホームに入ることを拒む彼女が生きていく術は、もうほとんど限られていた。

 和彦一家に彼女を受け入れる余裕は無かった。金銭的にも住居にしても、七人家族に入る隙などどこにも無い。だから総二郎夫妻に白羽の矢が立つのは自明の理だった。

「義母さんと、ですか……」

 その話を聞いたときの美奈子の第一声は、緊張で喉が引きつり絞り出したような声だった。言葉の上では平静を装っているものの、その顔は強張っていた。如月千歳は、彼女にそういう表情を強いる人間だった。有体な言葉で言えば、彼女は古い人間だった。そのため美奈子と折り合いがついたことなど、今日まで一度だって無い。結婚の後仕事を続けるという選択には激怒され、子供を産まないという選択では離婚届まで持ち出された。それでも今日まで生活できたのは、総二郎の説得のたわものだった。

「わかった」

 だがその和彦の提案にすんなりと頷いたのもほかならぬ総二郎だった。父が他界した時点で、こうなることを彼は覚悟していた。むしろその事を自分から言い出せず、兄に頭を下げさせた事を気に病んでいた。彼はそういう性格だった。

「大丈夫だよ美奈子、母さんだって年なんだからもう丸くなってるって」

 いつもの人懐っこい笑顔で、総二郎は美奈子にそう言った。世辞ではなく本心だった。過去に色々あった事は彼も重々承知していたが、それは十年以上も前の事であり母は美奈子を家族として接してくれる、二人がうまくやる事なんて何も難しい事ではない。本気でそう考えていた。

 総二郎のその言葉に、美奈子は静かに頷いた。心ではなく、頭で理解していた。年老いた義理の母を少ない年金でやりくりさせるなど無理な話で、施設に入る気は無いとなるとそうせざるを得ないとわかっていた。金銭的に支援するという選択肢は、二人には無かった。頑固な義母がそれを受け取らない事ぐらい二人は知っていたからだ。

 だから二人は、この十分な広さのマンションに千歳を招きいれる事にした。義理ではなく義務としてその結果を受け入れた。

 千歳が越して来ても、総二郎の生活にはさほど変化が無かった。会社に泊まりこむ事が珍しく無い彼にとって、家はほとんど寝るだけの場所になっていたからだ。ただ居間にいるのが妻と母になった程度の違いだ。当然寝室も違うので、平日であれば母と顔を合わせるのは正味数時間程度しかなかった。

 美奈子は違った。その生活が一変した。朝、千歳より早く起きなければならなかった。年寄りの朝は早く、五時半にはもう布団を出て朝食の準備を始めなければなら無かった。たまに手を抜いた朝食など、許される事は無かった。

「あなた、仕事しか出来ないのね。総二郎が可哀想だわ」

 ある朝、サラダとトーストとコーヒーが並ぶ食卓を見て千歳が言い放った言葉がそれだった。美奈子にとってそれは普通の朝食でも、千歳にとってはそうではなかった。ただの生活様式の違いであっても、美奈子は何一つ言い返せなかった。後れて出てきた言葉といえば、すいませんの一言だった。

 総二郎の考えなど夢物語でしかなかった。千歳にとっての美奈子は家族などではなく敵でしかなかったのだ。可愛い息子を取った女。孫すら生まない不良品。美奈子が嫁に来て以来、その印象が覆ることなどありえなかった。むしろ彼女に対する憎しみは、夫を失い一人で過ごす時間が増えた千歳にとって募っていくものでしか無かった。

 悪いのはこの女なのだから、自分が変わる必要は無い。そう思っている千歳が、変わるはずなど無かった。また義務感だけで世話をしている美奈子には、限界が近づいてきていた。自分ではろくに動こうとしないくせに文句だけを言い続ける義母に対して苛立ちを募らせるなというのは無理な話だった。それでも総二郎に相談する事は無かった。すぐに慣れるとか引越しのせいで気が立っているとか、そういう耳障りのいい言葉が返ってくるのは十二分に理解していたからだ。

 表面上、美奈子と千歳はうまく行っていた。口うるさい姑と献身的な嫁の関係。傍から見ればどこにでもいるただの普通の二人だった。その内側に憎しみと苛立ちが延々と積もっていることなど誰の目にも見えなかった。そういう処世術に関しては、不幸なことに二人共長けてしまっていた。

 だから限界は訪れた。事故の二文字に言葉を変えて。
 


 美奈子は、ただぼうっとしていただけだった。寝不足のせいで意識が上の空だっただけで、たまたま廊下を歩いていただけだった。対する千歳は、美奈子を避けようともしなかった。この女のために自分が一歩でも動くことに我慢できるはずもない。だから、肩がぶつかった。

 どちらが倒れるかなど、わかりきった事だった。足腰の弱ってきた七十五の老人が、立てるわけなど無かった。千歳は無様にも尻餅をついて背中を打ち、しかめ面を浮かべていた。

「ごめんなさい」

 気の乗らない美奈子の謝罪に、千歳は逆上した。ふざけるな、どこを見ていると初めはまだ正当性のある反論だった。しかし徐々に熱を帯びていった語気は、美奈子の人格まで否定し始めた。愚図、のろま、能無し。お前との結婚なんて、認めるべきではなかったと。壊れたラジオのように、大音量で喚き散らした。

 それでも美奈子には、それが不思議と雑音にしか聞こえなかった。じっと自分の手を見てから、やせ細った千歳の足を見た。地位や権力などではなく、原始的な腕力が十二分に勝っていることにそのとき初めて気がついた。

「そっか」

 その時、彼女は悟った。力関係なんてものは、とっくに自分が上回っている事に。老人を黙らせる為の最良の手段が、もう自分の手にある事に。それでもまだ完全にそれを理解してはいなかった。二十年近く自分を苦しませてきたこの女相手に、その手段が有効なのかと。

 だから壁に手をつきゆっくりと立ち上がる千歳を、彼女は試しに押してみた。鍵のかかった扉を押し込むように、ほとんど無意識で力をこめた。実験がしたかった。人が押せば倒れるかなどという、子供じみた実験を。

「あは」

 自然と笑い声が漏れていた。無様にも二度目の尻餅をつく千歳を見て、子供じみた声を上げた。倒れた千歳は罵詈雑言を浴びせるような事はしなかった。ただじっと恨みをこめて、美奈子を睨むだけだった。

「なんですか? その目は」

 美奈子は逆上などしなかった。頭は随分と冷静で、次にやるべき事を考えていた。顔や四肢の末端は、痣になれば総二郎が気づきかねない。だからその腹にかかとを乗せ、ゆっくりとめり込ませた。反射的に千歳が咳き込むと、美奈子は楽しくなっていた。恨みが恐怖に変わった目をした千歳を、こんな老人に頭を下げていた自分自身を笑った。

「二人だけの……内緒にしましょうね」

 二度、三度。釘でも打つかのようになんども腹に打ちつけた。四度、五度。耐えられなくなった千歳の胃袋はとうとう逆流してしまう。突然の暴力に頭が理解できず、その場で失禁している。可愛そうなどという感情を彼女が持つ筈は無かった。自分を苦しめてきたこの女がこうなるのは、至極当然の結果だからだ。それよりも気になったのは、床が汚れてしまったことだった。フローリングに吐しゃ物と尿がかかっている事だけが、彼女の気がかりな事実だった。しみにならないか、匂いは大丈夫か、中性洗剤は使えるのか。主婦らしい考えだけが彼女の頭を巡っていた。

「あ、そうだ」

 そこで、気づく。どうしてこの女のために、自分が苦労しなければならないのか。そもそも吐いたのはこの女が悪いのであって、自分が労力を支払う事は不公平ではないのか。だから彼女は社交性に富んだ作り笑いを千歳に向けて、初めての命令をした。

「その床、綺麗にしてくださいね。そうしないと今度は殴りますから」

 小刻みに歯を震わせながら、千歳は頷くしかなかった。美奈子は鼻歌交じりで廊下を離れ、寝室に読みかけの本を取りに行った。それからお気に入りの紅茶を沸かし、ソファに深く腰をかける。ページをめくろうとしたとき、廊下から千歳のすすり泣く声が聞こえた。

 その時初めて、主従が逆転したことを美奈子は頭で理解した。

 千歳に対する虐待が、過激になる事はなかった。むしろ日を重ねるごとにその回数は減っていった。千歳が愚図った時は、ただ手を上げるだけで良かった。またわざとらしく大きな音を立てるだけで小動物の様に萎縮した。小刻みに震える千歳を見て、美奈子は目の前の老人にも可愛い所があるのだと初めて思った。

 二人の表面上の変化は、総二郎の目には嬉しい物に映っていた。妻は以前のように笑うようになり、頑固だった母も嫁の言う事をよく聞くようになっていたからだ。

「言っただろう? 母さんだって丸くなるんだって」

 ある夜、床についた総二郎は笑顔でそんな事を言った。その時の美奈子は当然のように笑顔でそうですねと答えた。本気でそう思っていた。

 それでも、暴力による主従関係にはすぐ終わりが訪れた。千歳が凶行に走るのにはそれほどの時間は必要なかった。それはある意味、当然の結果でしか無かった。何も彼女は特別な事をしたわけでは無い。ただどこの家庭にも、台所には中年女性の腕力を上回るものが常備されているだけの話だ。

 それは夕食の席での事だった。椅子から離れ、コップを持って台所へと歩いて行く千歳を二人は不審に思う筈はなかった。

「あなたが、いけないのよ」

 そう呟いた千歳は、首筋に包丁を突き刺した。魚の頭を落とすように、細い腕に力を入れて刃を押し込んでいく。頸動脈が切られ血が吹き出ているのを見て、総二郎は何も出来なかった、理解そのものが出来なかった。うまく行っていた二人が何故と疑問に思うことしか出来なかった。

 美奈子の意識はもうほとんど消えていた。最後の言葉が頭の中で反芻される。あなたがいけない。その言葉がとうとう理解することが出来なかった。力関係を持ちだしたのは、千歳が先だと考えていた。

 だからこそこ彼女の最期は、ごく普通の結果だった。


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本作品は小説家になろう様にて投稿済みの作品となります。

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投稿サイト小説家になろうにて『聖剣はケツに刺す ~勇者だけど世界救ったら暇になった~』『パンツクエスト ~うちのメイドのパンツが勇者に盗まれたと思ったら、パンツを食べてスキルゲットしていました~』執筆してます。http://mypage.syosetu.com/545647/
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