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みんなのアーカイブ調査第三弾 キリン亭

ある時キリン亭さんにご飯を食べに行ったときに、座敷に吉田初三郎が描いた桃太郎の軸が掛かっているのを見かけました。お話を聞いてみると、もともとは犬山・栗栖にお店を構えていらっしゃったとのこと。先々々代の松山玉三郎さんはなんと「不老倶楽部」の発起人の一人だったようで、犬山市文化史料館で開催された「吉田初三郎とタイムスリップ!!」展にも軸絵を出品されていたりと、栗栖や初三郎とも縁が深そうです。

物置を整理した際にいくつか写真がでてきたとのことで、拝見させていただきました。

現在は犬山駅東の天神町にあるキリン亭ですが、1995年に移転するまでは犬山橋のたもとにお店がありました。それが上にある写真です。木曽川にかかる愛知県犬山市と岐阜県各務原市をつなぐ犬山橋は、1925年に建設された美しい三連トラス橋。2000年3月に橋の横に新設されたツインブリッジに道路が移設されるまで、電車と道路が併用されたとてもめずらしい橋でした。このツインブリッジ建設にあたり、道路が拡幅されるために立ち退きを迫られて、キリン亭は1995年に現在の場所に移転することになります。

犬山橋のたもとにあったキリン亭の前身はもともとはキリンビールが大正元年頃にはじめたビアホール「キリン亭」。

幕末期に、黒船来航と開港によって日本にも入ってきたビール文化。明治になって文明開化の時代が到来すると、国内でもビールの生産がはじまりました。1876(明治9)年には開拓使麦酒醸造所(サッポロビールの前身)が札幌に、1885(明治18)年ジャパン・ブルワリー・カンパニー(キリンビールの前身)が横浜に、1889(明治22)年には大阪麦酒会社(アサヒビールの前身)が大阪に、1890年(明治23)には日本麦酒醸造会社(ヱビスビールの前身)が東京に設立され、1899年(明治32)には愛知県半田市でも丸三麦酒醸造所が丸三ビール(カブトビールの前身)の販売を開始します。

1900年前後には東京や大阪でもビアホールが開設されるようになり、その人気は地方都市にも広がっていきます。古くから交通や物流、政治の要所として栄えていた犬山にもいち早くビアホールが開設され、キリン亭となりました。それがおそらく大正元年あたりのことだそうです。そのキリン亭を先々代の四郎さんが引き継ぐことに。(四郎さんの前までキリンビール直営だったのかどうかは不明です。)そして、その四郎さんが体調を崩されたのを機に、先代の三輝雄さんが引継がれたそうです。キリン亭は1995年の移転まで、鵜飼客や船頭を相手にした観光地の洋食屋のような存在でした。

これがキリン亭移転時のときの写真。2階は座敷だったようです。

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実はこの先代の三輝雄さんは、それまでは栗栖にある料亭「鱒乃坊」を一手に任せられていたとのこと。鱒乃坊はマス釣りのできる広い池も併設した大きな料亭でした。

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たまたま栗栖に行く用事があり、鱒乃坊跡を見に行くと、建物はまだ残っていましたが池もなく、往時の面影はありませんでした。

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犬山のいろんな記憶がつまったキリン亭のお話でした。ここからいろいろと紐解いていくと、多分犬山だけでなく、明治維新や大正期の日本の大衆文化についても読み解いていけそうです。「キリン亭」という名前にも、ながーい歴史がつまっているんですね。

貴重な写真とお話をありがとうございました。

※写真の無断転載禁です。

追記)2020年10月28日 閉館が決まった名鉄資料館に展示されている、初三郎最大のライバルとされる金子常光の鳥観図に、キリン亭が載っていました!

キリン亭


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