見出し画像

あとがきに代えて

『神様がきた』を読んでくださった皆さま、本当にありがとうございました。

 この小説はぼくが数年前に書いた作品です。ぼくはこれまでも小説を書いてきましたが、それらはほとんど人の目に触れることなく、パソコンのハードディスクに保存されたままになってきました。

 小説というものは書かれただけではダメで、それがだれかに読まれて、初めて完成する。その思いがはっきりとしたのは、noteに第一話を投稿してからでした。

 自分の名前で、自分の小説をインターネット上に公開するのは初めてのことだったので、投稿のボタンを押した後はいつも緊張したし、自分が恥ずかしいことをしているという思いが強くありました。その恥ずかしさというのは、たぶんぼくがこれまでの人生で本当の気持ちや本音を隠して生きてきたからだと思います。

 時事問題やあるテーマについて語るときにだって、その人の人間性は表れます。でも小説を公開して読んでもらうことは、エッセイを読んでもらうこととまったくちがう。

 小説を大勢に公開することは、小説家として認められた者だけに許されることだと、ずいぶん長い間ぼくは思い込んでいました。でも、人は自分を表現するのにだれかの許可をもらったり、何かの資格を得たりする必要はない。

 いまでも自分の小説を公開することは恥ずかしいし、たぶんその恥ずかしさはいつまでたってもなくならないでしょう。なんでこんなことをしているんだろうとも思う。それでも、これからも小説を発表していこうと思います。ぼくは、自分の内側の世界と、外の世界とをつながなければならない。

『神様がきた』は原稿用紙で100枚ほどの作品ですが、これをどのようにnoteという媒体に連載すればよいか悩みました。他の方がnoteに連載している小説も拝見しましたが、内容も文体もそれぞれなので、他の作品の方法論が自分にも当てはまるとは思えませんでした。これは小説を書くということにも当てはまると思います。ぼくたちは自分の文体や方法論を自分で見つけていく必要があります。

 連載当初はPCの画面でチェックして、スマホの画面でも確認して、と読みやすいボリュームで区切るように試行錯誤しましたが、どうしても物語の流れ上区切ることができない部分もあり、後半はボリュームにこだわらないようになりました。いつも原稿用紙換算で10枚ほどのボリュームで一話を構成しましたが、最後の二話はだいぶ長くなっています。バランスは悪いですが、ある読後感に達するためにはどうしてもまとまった流れが必要ということもあり、あのような構成となりました。

 過去に書いた作品をこれからも公開するかどうかはわかりません。かといってぼくは筆が遅いので、今回のようなボリュームとクオリティーを毎週書き続けるのは難しい。いまはリモートワークとはいえ、普段の仕事もある。それでも、今後はなるべく新しく書いた小説を読んでいただきたいと思っています。いまここで生まれること、それこそが創作においてもっとも大切なことだからです。

 新しいものに価値があると思われているこの社会ですが、brand newであることも重要ながら、創作はfreshであり続けたいと思っています。


ありがとうございます。皆さんのサポートを、文章を書くことに、そしてそれを求めてくださる方々へ届けることに、大切に役立てたいと思います。よろしくお願いいたします。