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都市と自然

お盆が明けると、突然夏の終わりがやってきた。近所を練り歩くお神輿の掛け声と、祭り囃子が、今年は涼しい。

夕方に近所の森を走った。昼間はまだ暑くて走ろうという気にならなかったが、夕方はぐっと過ごしやすく、風が心地よかった。犬を散歩させている人たちもいた。

平日は忙しいのでなかなか走る時間が取れないが、週末はなるべく緑のなかを歩いたり走ったりするようにしている。

自然のなかで体を動かしていると、いつの間にか心も体もリフレッシュする。スポーツジムのトレッドミルを走るのとカロリーの消費は同じかもしれないが、根本的な部分では異なる気がする。サンダルで土の感触を感じながら走るのと、スニーカーでゴムのベルトの上を走るのとでは、体へのフィードバックが違う。自然のなかにいると、大げさかもしれないけれど、浄化されるような感覚がある。

自然といっても、ぼくが通っているのは人の手の入った自然だ。人工的に整備されていない、人がアクセスしていない森に入る機会はなかなかないし、おそらくそこでは満足に走ることもできないだろう。人類は森から生まれて地球上に広がってきたのに、今や森は人にとってずいぶん遠い存在になってしまった。

子どもの教育環境を考えたり、今の仕事の状況などの理由で東京に暮らしているが、ふとしたときに、山や海のそばで暮らしたいなと強烈に思うことがある。それは、都心で生活したり仕事をしたりするのがきつく感じられるときがあるからだ。

東京の地下鉄を駅で待っている段階から、自分たちはシステムの一部なんだなという気がしてくる。誰もがスマホの画面を眺め続け、外の世界を見ようともしない。車内には目のつく限り広告が張り巡らされ、ルッキズムや能力至上主義など、資本主義を強化するためのありとあらゆるプロパガンダと対面せざるを得ない状況になっている。

端的に言って、人間性が欠けているのではと思う。

もちろんぼくも資本主義の恩恵を受けてここまで生きてきたし、単純な地方礼賛をしたいわけでもない。降雪地方での毎日の雪かきや、山間の集落では沿道の整備など、自然のなかで生きるためには日常的なコストがかかることも理解している。限られた人間関係のなかで一生暮らすことも厳しい。

2008年に、世界の人口の半数以上が都市部で暮らすようになった。その傾向はしばらく続くだろう。だとしたら、そのような世界でぼくたちが心身ともに健康に生きるには、どうすればよいのだろう?

アプローチはいくつか考えられる。シンガポールのように人工緑化によって都市環境を自然に近づけていく方法があるし、テレワークなどがさらに発達すれば、都市に労働力を集約する必要がなくなって、限られた都市への人口集中が緩和されるかもしれない。

だがきっと、自然と人間との距離を縮めていくだけではダメなのだろう。エコや環境保護がアッパーミドルの趣味程度に思われているとしたら、それは自然環境を破壊しているのは貧富の差だということになる。だから、ぼくたちは際限なく格差が拡大していく現状の資本主義を修正していく必要がある。

21世紀にもなって、多くの人が住むところも自由に選べないで仕事に縛り付けられているとしたら、それはシステムが悪い。そして、システムはぼくたちの手で変えられるとアナウンスしない教育も悪い。誰もがシステムの奴隷になって、奴隷同士で鎖自慢をしているのは、果たして幸せなことだろうか?

そして最も大事なことがある。それは意識の目覚めについてだ。ぼくたちが本質的には自由であること。この世界は、誰かが勝てば誰かが負けるゼロサムゲームではないと気づくこと。そして、過去にとらわれず、いつも現在を更新できる存在であるということ。これらは精神論ではなく、真実なのだが、そうは思えないとすれば何が原因なのか、それに気づくこと。

ぼくは宗教や信仰を否定しないが、宗教というフレームワークを使わずとも、人の意識は目覚めることができると思っている。目覚めには特別な神秘体験など必要なくて、ぼくたちの日常生活のなかで、人の意識は花開くと信じている。限られた人ではなく、誰もが。

ぼくはこれからあと何年生きるのかはわからないが、残された人生を、そうした人の目覚めに捧げたいと思っている。やるべきことは多いが、どこから手をつければいいかはわかっている。



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