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壱章 一話 レッド・アイ

 色彩しきさいが乗った指でグラスをテーブルに置く、看板はそのままにしよう。私になった僕を彼女はどう思うだろう。仕方がない、惚れた呪いだ。

――平成十五年八月――

 んだばかりの草葉くさはが夏風にひらひらとなつく。睫毛まつげの汗にそれはまるで一枚の羽根のように光っていた。

 ふぅ、今年の夏は本当に暑いなぁ。

 重要文化財に指定されている施設で働く職員のお手伝い、いわゆる雑用要員のアルバイト。大学に通いながらこの仕事をかれこれ三年程続けている。世間は夏休みの時期という事もあって、嬉しい賑わいを見せる反面、捨てられた空き缶や煙草の吸い殻が目立ってくる。身体が小柄だから小回りが利くだろうと仕事を割り振る担当者に思われているらしく、それを回収するのはすっかり僕の役目だ。

 タイムカードに刻まれる夏休みというのもそれはそれで大学生らしい感じだと思う。いや、そう思う事にしよう。

 帰りがけに手袋を買いにいかなきゃな、支給の軍手じゃ破れてしまう。一日の作業を終え、そんな事を考えながら帰宅へ走らせる自転車に脚をかけて汗を拭う。暮れ始めた日差しを仰いでいると、不意に駆け寄ってくる女性に意識をめられた。学友とは違う雰囲気を香らせる女性、先週からアルバイトに来ている城川亜樹しろかわあきさんだ。

「よかったらさ、今夜飲みに行かない? 後輩のお姉さんがオゴルからさぁ」

 あかく染まる亜樹さんの笑顔。予期しない誘いにうなづいた僕の姿は随分と滑稽こっけいだっただろう。

――ほろ甘いまま自宅に急ぎ、ぬるいシャワーを流すが一向に鼓動は落ち着かない。そのはずだ、繁華街など普段は縁がない。ましてや女性と二人っきりというのは初めての事なのだもの。当然、そんなシチュエーションに似合う服を選ぶなんてのはただの試練だ。悩むほど面白いコーディネートになってるぞぉ、あぁっ時間っ、

 散らばした部屋を後に、急いだそこにはいつもと違う亜樹さんが居た。短いスカートからスラリと伸びた長く白い脚、そのあでやかな容姿が心音を高ぶらせる。腕を絡ませてきた亜樹さんの微笑ほほえみは全てを見透かされているようで、夏の繁華街にずいぶんと頬が熱かった。

 五分程を歩いた雑居ビルの六階、夜の暗さから隔離された一番奥に黒地に白い字で “ 会員制 かがり ” と書かれている看板。お目当ての店なのだろう、しかし僕にとって充分すぎる威圧感に、亜樹さんはお構いなしと踏み入れていった。

――朱彩しゅいろで統一され、江戸時代の遊郭ゆうかくのようにあかい照明がらいでいる店内。なにか “ 異世界 ” という言葉がぴったりの雰囲気だ。十席ほどのカウンター席と、ソファー型の席が二組置かれていて、カウンターの隅に男性が一人。 少し離れた左手に、組み腕を枕に寝ている女性が一人。ソファー型の席で二人の男性客がグラスを傾けていた。そんな中で、亜樹さんは頬杖を傾かせ何を飲むのかと悪戯に指を絡ませる。言葉を詰ませたのは安酒しか知らないからじゃなく指先に心臓があるようだからだ。

「カガリさぁん。私はビールでっ。後、この子。もっしーはあんまりお酒強くないから、何かテキトーに美味しいヤツね」

 あ、いや、まぁいいけどぉ。カガリさんか、珍しい名前だな。店員は篝という女性が一人だけのようだ。細身に黒いブラウス、黒髪のショートカット。三十歳ほどの彼女がなにか妖艶に見えるのは店の雰囲気せいだろうか。

「はい。かしこまりました」

 って、声がダディだぞっ、まさかオカマさんってヤツなのかぁ、亜樹さんいったいどういう趣味を……んっ、なんか焦げ臭い……ふと髪の毛が焼けるような臭いに視線を泳がせていると「敏感な方、なのですね」と篝さんが微笑んだように見えた。

「そうですね。それならレッド・アイにいたしましょうか」

 たしかトマトジュースにビールを足したヤツだっけか。それならば大丈夫だろうと頷くと、篝さんは自分の背後に並ぶグラスの中からスリムなグラスを持ってカウンター横にあるカーテンの奥に消えた。

「この子ねぇ、このお店に合うかなぁって思って連れて来たんだぁ」

 差し出された黄金色と朱い色をしたロンググラスがカウンターに並ぶ。照明のせいか、珍しくもないお酒が艶やかに輝いているようだ。
 グラスを拭きながら意味深に微笑む篝さんの姿。胸があるし女性なんだよな、なんか自分の性癖が分からなくなってきたぞ。僕がこのお店に合うかなってどういう意味なのだろう。

 カウンターに五杯目のレッド・アイが置かれると同時に、篝さんはこれが最後だと告げた。深夜も随分と経っているのだろう、篝さんもなにやら疲れているように見える。品切れさせる程に飲んでしまった僕は見事に酔いが回ったようで、ほどなくしてタクシーに乗せられ家路についた。
 途中、髪の毛の短い女性に肩を借りたような気がするのだけど、いかんせん記憶が面白い、お店の人だったら後でお礼を言わないとな。

――翌朝。お酒と煙草にまみれベッドに倒れこんだ不格好を朝のざわめきが目覚めさせた。あと十分起きるのが遅かったらアルバイトのシフトに遅れる時間だ。フラつきながら含んだ歯ブラシを動かした時、何かがガリッと音を立てて白い陶器に跳ね落ちた。どうやら銀歯が欠けてしまったらしい。慌ただしい朝にそれを気にかけている余裕もなく、早々に自転車に股がりアルバイト先に走らせる。

 今日は信号につかまらないなぁ。うん、いい事ありそうだ。

 職場に到着して定刻を迎えると始業前の朝礼が始まる。アルバイトを統括している仲倉なかくらさんが皆にその日の作業指示を出すこの時間が唯一全員が顔を合わせる機会だ。

 あれ、亜樹さん遅刻かなぁ。昨日のお礼言いたかったのに。昼休みにでもタイミングが合えばいいけど。

 施設の広い敷地は仕事も多種で、休憩時間や昼休みもまちまちだ。仕事中に亜樹さん一人を見つけるのは、増して難しい。

 容赦なく照らす真夏の陽射し。仲倉さんから言い渡された仕事は敷地内の芝生の手入れ。まぁ、早い話がゴミ拾いと草ムシリだけど。
 注意書きの看板でうながしていても、すぐに空き缶などのゴミを見つけてしまう。それを手に取ろうとした時、芝を這うムカデが視界に入った僕は女性のような叫び声を殺して遠ざかった。環境が良い証拠だろうけど、やっぱり居るんだよいろいろとぉもうぅ、本当に今日は手袋買って帰らないとな。わりと時給もいいからゴネないけどさぁ、それにしても暑っついっ。

 亜樹さんを探すような時間も無いままゴネながら淡々と作業をこなす。しかし暑さに流す大量の汗は現実へと引き戻してくれるようだ。それはいつもよりも作業を集中させたようで、気が付くと時間は夕刻も迫まる頃になっていた。

 一日のシフトが終わり、何か寂しさを感じながら汗を拭いていると、あのうるわしげな声がまたも振り返させた。

「よかったら飲みに行かない? オゴルからさぁ。でもこの暑さで二人とも汗だくだよね、夜に待ち合わせしよっ、八時にみやこ公園で」

 もしかしてと戸惑った僕の返事は、暑さのせいと誤魔化すには随分とぎこちなかっただろう。明晰夢めいせきむのような感覚で待ち合わせた昨夜と同じ場所。少し遅れた亜樹さんが僕の腕を引き寄せて繁華街を歩き始める。昨夜と同じように。

――雑居ビルの六階、一番奥にある黒地の看板。篝さんの声を聞いた後、亜樹さんがカウンターの席を引いてエスコートするように僕を座らせる。カウンターの隅の席に男性が一人。少し離れた左手に組み腕を枕に寝ている女性が一人、ボックス席に男性客が二人。酷似こくじしすぎるさまはまるでデジャヴだ。

「あ、カガリさぁん。私はビールで。後、この子はあんまりお酒強くないから、何かテキトーに美味しいヤツねぇ」

 亜樹さんの言葉に篝さんはカシスオレンジを勧めた。昨夜とは違う物、その変化は僕を安心させた。二人の前に注文したお酒が揺らぐグラスが置かれる。黄金色と朱い色のお酒。繰り返す明晰夢のような光景に酔いが回ったような感覚を覚えながらも、そのグラスに手を伸ばした。

 ん……ひどく甘いなぁ

 夏の喉越しにカシスオレンジの甘味が重たく感じた僕は昨夜の味を思い出し、レッド・アイを注文すると、グラスを取った篝さんがカウンター横のカーテンに消える。何かその背中が一瞬止まったように見えた。あれ……さっきまでは目の前でお酒を作っていたのに。

 先ほどのお酒より一層朱が濃いグラスがコースターの上に置かれた。しかし二日連続のお酒と昼間の疲れもあってか、五杯ほどで眠気に襲われる。亜樹さんは篝さんと何かの話に夢中のようだ。

 カウンターで頬杖をつきながら眠気をはらっていると、組み腕を枕に眠っていた女性からの視線を感じた。

「お前、ハーフか?」

 確かに物心つく以前に亡くなった母は外国人だと聞いているけど、低い鼻がそれらしくないのだろう。初めてだった、初対面の人にハーフと言われたのは。事情を伝えると、なにか女性は首を傾げている。

「いや、そうじゃなくてさ。ブリード……まぁいいや」

 何かとらえられない会話に意識が取られ過ぎたようで、気が付いた時には亜樹さんの姿が見えなくなっていた。ブラッドって……噛み合わないのかなぁ。うん、随分と酔っているしな僕。

――翌朝、大学生という身分で連日の二日酔いというのはさすがに自分でも呆れてしまう。歯磨きの途中、また奥歯のあたりに違和を感じた。吐き出したそれは昨日と同じ黒い塊……また銀歯が欠けてしまったらしい、さすがに歯医者さんの予約かなぁ、こりゃあ。

 今日はやたらと信号につかまるなぁ。

 昨日と変わらない時間に部屋を出たはずなのに見事に全ての信号機に捕まってしまい、今朝のタイムカードは定刻を過ぎてしまう寸前だった。

 眠気と気だるさが残る中、いつもの朝礼が始まる。その中に亜樹さんを探し皆を見渡すけれど、姿が見当たら無い。どうやら今朝もお礼を言う機会を逃したようだ。
 お世辞にも身長が高く無い僕が懸命に伸ばしていた首筋を落ち着かせた頃、普段は場を和ますように作業指示をする仲倉さんが、何やらえりを正し真摯しんしな表情で皆の顔を見渡している。それは初めて見る仲倉さんの眼差しだった。

「静かにっ、整列お願いします。えーっ、今日は作業説明の前に、誠に残念な報告があります。先ほど連絡がありまして……昨日の朝、城川亜樹さんがお病気で亡くなられました。通夜等の連絡はまた後程いたします」

 なっ、昨日の朝って……だ、だって昨夜亜樹さんと、

 突然頭を砕かれたような感覚の中、何か確かな物を探そうと意味も無くカバンを漁り、伸ばした指先がそれに触れ硬直した。

 開いたカバンの奥底……あるはずのない新品の手袋が入っていた。

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