禁酒日記14日目 ありがた迷惑

朝7:30に起きて二度寝。10:00に目が覚める。11時頃にノロノロと食事の準備をしてピーマンと鳥ささみのペペロンチーノを作った。卵も入れた。トマトを切って生で食った。朝は抜いた。夜は家系のラーメンを麺大盛り肉多めで。ラーメンを食ってしまったので夜40分歩く。

酒を抜いて今日で二週間。コンビニの前を通ると酒を買いたくなる。しかしなんとか我慢できている。地方都市に住んでいると酒が主要な娯楽だと気づく。しかも健全な方の娯楽だ。普通酒と言ったらどちらかといえば不健全な娯楽だと思われているだろうが、地方都市においてはやや事情が異なる。地方で最も大きな娯楽はパチンコパチスロなどのギャンブルだが、無論ギャンブルは身を滅ぼして何も生まない。一方で酒は人々が集まる機会になる。社会的繋がりを維持する機能がある。そのため地方都市の居酒屋やスナックは重要な役割を果たしている。家庭から解き放たれて「第三の場所」に長時間居られる機会は飲み会しかない。また、しばしば飲み屋にはシングルマザーや高齢フリーターがいて働いている。客は彼女ら彼らに酒を奢る。経済的弱者の自然発生的な柔軟な受け皿として機能している側面も存在しているのだ。客は単に酒と食い物に金を払っているのではなく喜捨的な意味合いがある。しかも建前上サービスの対価として支払うためソリッドな債権債務関係にならない。支えられた方はぼんやりとした恩義を感じるのみである。強いていえば街から支えられているのである。太っ腹な客の支払いは酒によって生まれる利他性だ。時に押し付けがましくもあるが、利他的行動は押し付けがましくなければ発生し得ない。利他的行動は相手を気遣っていたらできない。相手の事情に関係なく、無断で相手の懐に踏み込んでいって、善意を無理矢理押し付けるのが利他的行動だ。酒の入っていない常識的な気遣いのある人物はそれを避ける。酒が気遣いの作用を弱めると、人は押し付けがましい行動をするための大胆さを得る。そして、押し付けられたほうがどう感じていようと、どれほどありがた迷惑であろうと、そのありがた迷惑の積み重なりが社会の弾力性を生む。

酒が全く禁じられた社会を想像すると、相手の事情を重視した気遣いで塗り固められた人間関係が容易に想像できる。そこには押し付けがましい太っ腹がない。親切心からするよかれと思ってのありがた迷惑がない。利他的行動を受け取る側にしてみれば、予想外の僥倖がない。その時僥倖と思っていなくても、後から振り返ればあの時のありがた迷惑がためになっていたということはあるし、自分にとってはありがた迷惑でもその他の人には純粋に感謝に値する贈り物かもしれない。100人のうち1人が「ありがた迷惑だ」と感じるからといって99人がありがた迷惑を受け取れない社会は大都会においてはほとんど現実である。

酒は社会にある種の柔らかさを生んでいる。酒がなくても元々利他的行動を取れる人もいるだろうが、そういう人は極めて少ないし、短期的な視点における経済合理性がないため、酒の入っていないまともな人は利他的行動を取らない。彼女ら彼らにも他人よりも優先度の高い存在がいるからだ。酒はその優先度を転倒させる。そういった柔らかさは、本来酒がなくてもみんなが持っていたものだ。社会は本当はもっと柔らかかったはずだ。もちろんそれはある種の陰湿さと表裏一体ではあっただろう。しかし社会の柔らかさは善悪の概念とは無関係だ。

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