禁酒日記2日目

禁酒二日目。昼はササミフライの定食を食い、夜はカツカレーを食べた。夕食後にはハイチュウを2袋も買った。禁酒した時によく現れる揚げ物欲と甘い物欲がもう出てきている。

不思議なもので、禁酒しているつもりがなくたまたま忙しくて酒が飲めない日が続いているだけの場合は、同じく丸二日間飲めていなくても揚げ物や甘いものをたくさん食べようとは思わない。おそらく、「もう自分は酒が飲めないのだ」という意識が大きく影響している。そのような悲観的な意識が、自らの酒が飲めないというマイナスを埋め合わせんがために、揚げ物や甘い物という仮初の欲望を満たそうとするのだろう。言わば代償行為なのである。

禁酒を持続させるためにはそのような見せかけの願望を満たすのも良いかもしれない。それによって飲酒したい気持ちが収まるはずもないが、単純にさまざまな感覚に触れることは良いことである。酒をいつも飲んでいる時は胃腸が荒れているため、無意識に揚げ物は避けるし、摂取可能カロリーは酒のために空けておきたいので甘いものも避けがちになる。しかし酒を飲まないために見せかけの願望の対象として求めた揚げ物や甘い物は、久しく味わっていなかった旨味や甘味として新鮮な経験をもたらすことがある。それらの経験が、酒による以外のドーパミン受容体を復活させるのだと俺は信じている。

酒以外の刺激として、音楽や映画や本などの鑑賞がある。芸術・表現だ。エンタメと言ってもいい。酒をやめると、ポッカリと空いた時間と心と財布の隙間にそれらがやってきて、意外な感動をくれることがある。酒を飲んでいる時は10分も我慢して見ていられなかった映画が、じっと座って見られるようになる。面白ければ興奮してネットのレビューを漁ることもある。酒を飲んでいる時には考えられないことだ。本も同じだ。本を読んだあと、ネット上で同意見の感想を述べている記事を見ると少し嬉しいし、逆に自分の意見が極めて少数派だとわかるとブログ記事の一本でも書きたくなる。

ところが音楽。音楽は、具合が悪いことに酒との相性が抜群にいい。酔えば酔うほど音楽に乗れる。音楽は心と体を揺り動かすものだが、強張った心と体にはなかなか刺激が伝わらない。あらかじめ酒で心と体を緩めておくと、まるで内側から響くかのように音楽と人間が一体化するのだ。酒を飲んで音楽を浴びると、気狂いのように踊れることがある。

酒のない音楽はどこか味気ないものだ。良い曲でも、体を動かすところまでいかない。首も腰も振れない。酒がなくても楽しめる音楽の条件はたった一つで、それは「知っている曲」であることだ。何度も聴いたことのある馴染みの曲であれば、酒がなくても踊れる。本来音楽とはそうものだったであろうと推測する。何度も何度も人間の心と体をノックすることで、少しずつ内奥に染み渡っていく。何度もノックされたら、人間は自分の存在を少しずつだが音楽に明け渡すのだ。

酒なしで音楽を楽しむには、たくさんの曲を何度も聴くしかない。しかしながら酒によってゆるめられていない心と体は、くだらない音楽やつまらない曲はうけつけない。何度ノックされても無駄である。そのため、酒を飲まずに音楽を聴き続ければ、自分好みの偏った音楽や人の知らない音楽ばかり聴く鼻持ちならない音楽オタクができあがるだろう。酒があるから、くだらなくてつまらない下手な音楽にも居場所がある。そしてくだらなくてつまらない音楽の周りにも人の輪があり、助け合いのようなものが生まれる。いま酒を手に取れない俺は局外者としてそれを遠巻きに眺めるだけである。音楽オタクにもなれないままで。

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