禁酒日記10日目

朝は塩茹でパスタ麺にレトルトミートソース。昼はコンビニの納豆、塩サバ、白米、カット野菜、プロテインバー。夜は定食屋で焼きサバ定食。日に2回もサバを食っている。夜40分弱歩く。

昨日に続きスマパンを聴いている。聴いていると言っても一回アルバムを通して聴くだけだ。それでも全然聴き終わらない。大作志向なのだ。この大作ぶりは何かの不安の裏返しのように感じた。もちろんこれは俺の憶測に過ぎない。しかし割り切りの良いアルバムもの世の中にはある。音源がデジタル化していくらでも曲を詰め込めるのに、30分で終わるアルバムを出すバンドもいる。しかしスマパンはそうではない。また、後期になると曲がゴージャスだ。時にクイーンを連想させる。映画を観ているようと言えば聞こえはいいのだが、それだけで片付けられないものを感じる。虚構の世界を表現しなければならないという強迫観念めいたものだ。バンド就中フロントマンには2種類いる。その人自身がバンドの物語であるような人物と、その人の表現する何かがバンドの物語であるような人物だ。前者を平たく言えばロックスターということになるだろう。その人自身が物語の主人公のような人物。他方はどうだろう。その人自身は物語の主役とはなり得なさそうな人物だ。そのような人がバンドをやるなら、自分自身の物語ではなく、架空の物語を用いねばならないだろう。さもなくば華のなさから埋もれていくだけだ。

ロックバンドをやるからには多くの人がロックスターを目指す。音楽だけでなく、スタイルを作り込む。作り上げたスタイルがその人のスター性を担保する。スター志向のバンドマンは例えゴシックだろうと本質的に陽の属性なのだ。だがスタイルやスター性から、はじめから見放されている者もいる。自意識がそれを許さない者もいる。その人たちはスタイルを作り込むことができずスターにもなれない。この人々こそ真の意味で闇の属性を持つ。人によっては「気持ち悪い」と形容されることもあるだろう。しかしだからこそ、即自的でない奇妙な作品が生まれる。小説の様で映画の様な音楽だ。自分自身の代わりに、架空の世界が物語を織りなしてくれる。自分自身は自殺することなく、スーサイダルな人物の物語を作れる。

大作であることはこの架空の世界の構築に必要不可欠だ。そしてそんな創作態度はオルタナティブロックバンドの中では珍しいのではないか。スマパンが新作を出し続けられるのは、オルタナティブロックバンドである以前に大作志向の物語構築バンドというアイデンティティの方が強いからだったりするのかもしれない。

サポートは不要です。