禁酒日記7日目 盛場

休日。昼前に起きる。昼食にワンパンぺぺたま。夕食はコンビニのざるぞばいなりとサラダチキン。その後所用で盛場へ。

盛場ではみな酒を飲んでいるわけだが、コーヒーと果物ジュースを注文した。酒を我慢したのだ。一抹の寂しさはある。他人と同じくらいに盛り上がることができない。しかしこれは自分の業のようなものだと思う。自分は心の中で他人をナチュラルに見下している。それゆえ、見下している相手が作り出すもの一切に乗ることができない。例えば、他人の持ってきた話には必ず疑いを入れる。他人の奏でる音楽には頑なに乗らない。他人の作り出すもの全てに、必ずどこかに欠点があると信じて粗探しする。タチの悪いことに、どこにも欠点のないものなど極めて稀であるため、自分の、他人をナチュラルに見下す態度を補強する材料は常に充実しているわけだ。それゆえに俺のこの腐った根性は治ることはない。

さらに具合の悪いことには、ある程度客観的に測れる指標において俺が他人を見下すのも由なしとしないという事情がある。例えば何らかの筆記試験のようなものだとか、会社内における人事評価のようなものにおいて、俺はこれまでの人生で相対的に平均より上に位置していると評価されることが多かった。もちろん、これは俺の外面を取り繕おうとする所謂「真面目系クズ」的な振る舞いがもたらしたにすぎず、本当の意味で相対的に他人より優れているわけではないだろう。その証拠に、ある集団の中で1位を獲得するようなこともこれまでの人生においてただの一度もなかったのである。しかし、この「客観的事実」が、俺の他人をナチュラルに見下す態度にとって追い風となってしまっていることもまた認めざるを得ない。

酒を飲んで酩酊状態となると、不思議とその腐った根性から自由になれることがあった。他人を素直にすごいと褒め、見下さないでいることができた。他人のもたらした話題に興味を持ち、他人の奏でる音楽に乗り、他人の欠点よりも美点を褒めることができた。禁酒生活で内省して思ったのだが、酒は人格を悪い方に変えるばかりでなく、良い方に変えることもあるかもしれないということだ。さらに言えば、酒で人格が「変わる」という表現も不正確かもしれない。酒は社会生活の中で意図せず纏わされた外套を取り払ってくれる側面がある。他人を意味もなく疑ったり見下したりする態度は、他人に傷つけられたり騙されたりした経験がそうさせるのだろう。この態度は自分を守るための外套なのである。それは機械学習における「過学習」のようなものかもしれない。

何度もこの日記で書いていることだが、酒は悪くない。悪いのは酒に頼る自分である。酒以外の方法で外套を取り去れるようになるべきだ。禁酒はそのための探究の旅だ。まだ始まったばかりだが、他人をはじめから疑ったり見下したりせず、自己を頑なに守ろうとせず、他人に自己を開け渡せるようになるべきだ。なぜなら、酒が教えてくれたように、外套の下では本当は自分はそうしたがっているからである。

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