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無点句という学びの種、俳句のえにし

 一昨日は久しぶりにオンラインゆうぎり句会を開催した。いつも時間が足りなくなるので少数精鋭、参加者は四人のみ。選評からはもう一人、句友が加わってくれた。
 相変わらず私の句にはあまり点が入らなかった。しかし「句会などではさほど点が入らず、一読よく分からなかったり具体的な景が見えなかったりするけれど、繰り返し読んでいる内に次第と視えてくるものがある」句を作りたいという野望を密かに抱いている私にとっては点数など割とどうでも良いのであった。負け惜しみでもなんでもなく。そんなことよりも、選評以降の時間にどれだけ議論出来るか、どれだけ多方面からの切り口を見出せるかということの方が私にとっては重要だ。
 句会の雰囲気にもそういった思考が反映されているんじゃないかな、と個人的には感じている。(参加してくださっている方々がどう感じていらっしゃるかは分からん、気になる人は直接聞いてみてください。)高得点の句が句会当日にめちゃくちゃ賞賛される!なんてことも特にないし、「おっ、今回結構偏りましたかね〜」「誰々さんのこの句、みんな好きやったみたいやな〜」などといった談笑が交わされる程度で、そのまま『無点句含め全句鑑賞』を目標に選評・議論の時間に突入することがほとんどだ。
 点数を得ることが目的ではなく俳句談義をする時間を求めて我々はこの場に集っているのだ、と実感出来るその流れが、私はとても好き。
 勿論時間は有限なので無点句の全てに至るまで実際に言及する余裕はないことが多いし、一応(多くの人が気になっているのだろうという前提で)高得点句から鑑賞していくため、点が多ければより多くの指摘を受けることが出来るという恩恵はある。が、一点や無点だからといって完全にスルーされるということはない。何なら後日「前回の句会の無点句について」と評をまとめてくださる方もいらっしゃる。
 一昨日、句会を始める折にも少し話したが、無点句について「何故この句には点が入らなかったのか」「何故自分はこの句を採らなかったのか/採れなかったのか」「この句のどの辺りが引っかかったのか」等を述べ合うことで初めて得られる気付きもある。同時に、作者側からすればそれらの時間が「だとしても私は、この句はこのまま残したいのだ」という決断に踏み切るきっかけにもなり得るし、そうでなければなるほど、もっと推敲が必要だな、と素直に受け入れれば良いだけの話だ。

 SNSなどで「俳句を始めてみたけれどまだ句会に行くのは怖い」「一連の流れも全然分からないし、誰にも採ってもらえないかもしれないと思うと不安で‪……」といった俳句初心者の方のつぶやきをお見かけすることがあるが、句会の『流れ』なんてその場で教えて貰えば良いから知らなくても大丈夫。もしも手持ち無沙汰な時間が出来てしまったら周りのどなたかに「ここまで進んだんですけど、次はどうすれば良いですか?」と聞いてみれば良い。訊ねられた方は、きっと笑顔で答えてくれる。だって、自分の好きなものについて、誰かが新しく興味を持ったり好きになってくれたりするのは嬉しいから。物事は存外単純なのである。
 そして、句会に投句した句が仮に全て無点であったとしても落ち込む必要など全くない。前述の通り、そこから得るものが確実に存在する。あるいはそこから己の作風が確立していく可能性もある。

 私は帰属意識や仲間意識がとても苦手で、そいういったものを感じる度に心が疲れてしまう人間だけれど、風通しの良い句会で様々な意見を述べ合える時間は大切だと実感している。点数云々じゃない。句会で他者に認められるかどうかじゃない。自分自身が新しい気づきを得られるかどうか、学びの種を拾えるかどうかだ。
 そして、その「学びの種」が確かに存在すると既に知っているから私は句会を続けるし、帰属意識・仲間意識が苦手でも、句会で出会った彼らのことを私は素直に愛おしく思っているから「句友」と呼ぶ。そこには概念を超えた、「俳句が好き」「言葉が好き」という想いのみによって縫い合わされたえにしが生まれている。


yacca.


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