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親みたいにはならない。親の呪縛から解放されたい人へ。

「親みたいにはなりたくない」って思うとき、実は自分がその親にどんどん近づいているってことには気づかないんよね。

親がすぐ人に当たったり、愚痴ばっかり言う人だと、「自分はそんなふうにはならない」って強く思うよね。でも、なんか気づくと同じように不機嫌で、ちょっとしたことでイライラしてる自分がいる。

「親みたいになりたくない」っていう思いが強ければ強いほど、逆にそれに縛られちゃう。何かを避けようとすると、余計に意識しちゃうんよね。

たとえば、「今から一分間「りんご」のことを考えないでください」って言われると、ずっと「りんご」が頭の中に浮かんでしまうあの現象と同じなんじゃないかな。

そういうときに陥りがちなのが、「親の生き方と真逆の道が、自分の生き方だ」って思うことなんよね。でもそれも落とし穴で、そうやって無理に「ポジティブでいよう」とか、「親と違う生き方をしよう」ってすると、どこかで必ず無理が生じる。

なんでかっていったら、結局それも「親」を基準に自分を合わせてるから、そこに本当の自分の意思があるわけじゃないし、すでに親に影響されちゃってるんよね。

で、「何がしたいんだろう?」って自分を見失っちゃう。

「親と反対の姿」を自分のあるべき姿に設定して、その形に自分を当てはめようとするんだけど、そんなのは結局無理で、改めて「自分の姿」を作り直そうとするんだけど、そもそも「親」を基準に考えてるから、本来の自分の型ないっていう状態。

どうしたらここから抜け出させるのか、それは、親に「無関心」になること

「親のようにならない」を目指すんじゃなくて、そもそも「親見たいかどうか」なんてことを気にしないってこと。自分がどうありたいかだけを考えて、自分が楽しいと思うこと、正しいと思うことだけをやる。

実はこれが案外難しいんよね、だから「親の反対像」を目指してる方が楽なんよ。考えなくていいからね。でも、それだといつになっても親の呪縛からは逃れられない。

自分の姿っていうのはある程度決められてて、それは選べるものではないかもしれない。でも、「自分らしさ」っていうのはその中でどうにか模索していくものなんじゃないかと思うんうよ。

自分の生き方を模索するって、親と同じでないことを探るってことじゃなくて、自分の中で心地よく感じることを追求するってことなんよね。

だから、そこに親がどうかっていうのは関係なくて、親は親、自分は自分、ただ「自分の生き方」をやるだけ。


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