オルゴールの音色が呼び覚ます記憶。
モノには様々な思い出が込められている。
ここに、1台の小さなオルゴールがある。10年近く前の旅行で、自分へのお土産として買ったものだ。
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30代後半で私が会社を辞めた時、辞めたらやりたい事リストの上位にあったのが、母を海外旅行に連れて行く事だった。
仕事を辞めた翌年の3月に東日本大震災があり、世の中はまだまだ大変な時期だったが、6月に私は母を連れての海外旅行を決行する。
自粛ムードだろうが、周りからひんしゅくを買おうが、どうして実現したかった。私には母を旅行へ連れて行く理由があった。
母の父、つまり私の祖父は、建設関係の事業をしていた。祖父自身は中卒で、無学の苦労を味わったらしい。当時の田舎では珍しく、私の母を東京の大学へやった。女性に教育を受けさせようという意思と、それができる経済力を持っている人だった。
大学卒業後、母は東京で知り合った私の父と結婚した。祖父の反対を押し切っての結婚だったと聞く。勿論楽しい事も沢山あっただろう。しかし、経済的には苦労の連続だった。
私の父は理想は大きいが、地道な努力が苦手な人だった。経済力が無く、病気がちだった。何かと頼もしかった祖父と比較され、父もしんどかっただろう。気の強い母は、その生活を投げ出す事をしなかった。
今でもはっきり覚えているのだが、私が中学生位の時、母が当時仲良くしていたお母さんグループ4〜5名で、海外旅行へ行こうという話が出ていた。
母が一番親しくしていた1人が、うちの小さなリビングでしきりに母を誘っていた。
「行きましょうよ。お金なんて、パートでも何でもしてなんとかなるじゃない。」
お金なんて無かった。仮にそのお金があったとしても、母は他の事に使うであろう事は容易く想像できた。教育費、生活費、母がパートしながら、なんとかギリギリでやりくりしているのは、子供の私から見ても明らかだった。
しかし母はこう言った。
「行かないわよ。最初の海外旅行は主人と行くって、決めてるんだから」
母の友人は、あらー、あなた亭主なんてあてにしたら、いつ行けるかわかんないわよー、とかなんとか言っていた記憶がある。
あの時の母の言葉は、本心だったのか、強がりだったのかはわからない。ただ、母の毅然とした声は、なんかカッコ良かった。
私が20代の時、両親は離婚した。
母は結局、海外旅行に行けず仕舞いだった。
* *
山が好きな母のために、私はスイスに2日滞在できる、フランス、スイス、ドイツ周遊8日間ツアーを申し込んだ。エコノミークラスの慌ただしいツアーでも、私にしたら一世一代の出血大サービスだ。
添乗員付きのツアーだったので、定年退職して旅行楽しんでます、みたいな、母と同世代のご夫婦が多かった。食事中、雑談する機会も多く「娘さんと2人旅なんて理想ね、羨ましいわ」と声をかけてきた気の良さそうなご婦人に、「娘が連れて来てくれたんです」と誇らしげに語る母は、嬉しそうだった。
比較的若い女性は私位だったので、安ワインで酔っ払って、やたらと絡んでくるおじさんも少なくなかった。営業職が長い私にとって、そんなおじさんの相手をするのは大して苦でもなかったが、元々お嬢さん育ちの母は、まだワインが入っている私のグラスにおじさんがビールを注いだ事に腹を立てて「やめて下さい!」と、とんがった声を出して、その場をしらけさせる事もあった。
朝食の席では、リラックスした服装で集まるツアー客が多い中、母は、きちんとお化粧し、ショールを巻いて登場した。例のおじさんが、「お、これからお出かけですか」と冷やかした。母は返事もしなかった。
母が、母と同世代の人の目にどう映っているのか、私は普段気にした事も無かった。世間知らずの田舎のお嬢さんだった母が、結婚して以来ずっと、経済的に苦労し、理想と現実の狭間で、どうやって自分のアイデンティティを維持してきたのかと思うと、ちょっと切なくなる。同時に、この時の母に、1人の女性としての矜持のようなもの、を感じた。
色々あった珍道中だった。私にとっても初めての場所ばかりだったが、自分の欲はおさえて、母の望みを中心に動いた。
母は終始緊張した面持ちだったが、行く先々で、その感激は私に伝わってきた。連れてきて本当に良かった、と心から思えた。
日程の中盤でスイスへ。
ベルンを経由して、宿泊地のインターラーケンは、マッターホルンへ向かう経由地の定番らしい。高度が高く、空気もひんやりしている。街並みから見える雪を抱いた山々は本当に神々しい。
ザ、観光地という感じのお土産屋さんが並ぶ街並み。日本のデパートのスイス市とかで、2倍くらいの値段で売られていそうな量販品ばかりだったが、それらが大量に並ぶ姿すら感慨深い。生のスイスだ。
夕食のラクレットは、厨房で既にチーズを流し入れたものが皿にのってサーブされ、かなりがっかりしたが、それでも、スイスで食べているというだけで味わい深い。母はチーズが好きだ。「やっぱり美味しいね」と言いながら、パサパサのじゃがいもと一緒に頬張った。
泊まったホテルは、並より少し良いランクで、併設のお土産屋さんは、上品な品揃えだった。東京のデパートで時々見かける高級チョコレートも取り扱っていた。その店にあるものは、他の多くのお土産屋さんと少し趣きが異なり、全てのものがステキに見えた。
そこに、そのオルゴールはあった。
10センチ四方の、木製の小さな箱は、無駄な装飾が無く、凛として美しい。
お店の人に音を出してもらうと、馴染みのあるエーデルワイスのメロディが、透き通るような音色で美しく、そして優しく響く。
日本円にして1万円程度のものだったが、失業中で、かつ、この旅行に大金を使った私は目下無駄な出費は避けたく、買うかどうか悩んだ。
母は、私の隣から覗き込みつつ、
「あら、ステキじゃない。買ってあげるわよ」
と呑気な事を言う。
悩んだ末、私は自分でこのオルゴールを買った。
※ 後日談だが、3年前、私はこのオルゴールを壊してしまった。乱暴に蓋を閉じたら音が出なくなったのだ。
電話で母にその話をしたら、家の近所に時計修理の店を見つけたから持って来いと言う。母はそのオルゴールをそのまま修理に出してくれ、数週間後には修理されたものが、私の手元に戻ってきた。母にとっても、思い出深い品なのだと、その時知った。
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今日、久々に、このオルゴールの蓋を開けてみた。音色は、あの時と変わらず、美しく優しい。
音は記憶をよみがえさせる。
スイスのひんやりとした透明な空気、登った山から見えた風景、山頂で雪をつかんではしゃいだ母の姿、会社を辞めて日本へ置いてきた様々な感情、ようやく実現できた母との時間、数十年越しに叶えることができたかもしれない、いや、最後まで叶えられなかった本当の母の願い。
あの旅から10年。
旅に出れない今。観光業で生きているあの美しい街は、今頃どんな状況なんだろうか。
私はあれから、母に対して何か出来ただろうか。
10年なんてあっという間だ。今から10年後、私は今の私をどのように思い出すだろう。このnoteを読み返す事はあるだろうか。
明日は朝から出張だ。こんな時期にと思うが、同時にありがたい事でもある。
今あるものに感謝しながら、また1日1日をしっかりと歩いていこう。
とりのこ
本当は小説が書きたいです。