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第三十八話「出航前夜」2024年8月1日水曜日 晴れ

 シェアリングコーヒーショップの出店を明日に控えていた。不思議と緊張はない。準備は前倒しで行っていた。今できる範囲内では万端だ。現場に行けば、細かな修正は必要であろうが、何事もそんなものだ。想定と現場は違う。
 初日はおそらく、備品やオペレーションの確認、Instagram用の画像収集の時間になるだろう。それでいい。周りの助けもあって忙しくさせてもらっているが、それがなければ、本来は毎日が日曜日の失業者なのだ。数時間だけでも自律的に動ける場所を借りられたのは幸せなことだ。
 木曜日はいつもどおり相棒のワインバルで働く。相棒の休み回しだ。私は正社員時代の一時期、この店で店長をやっていたことがある。勝手の知った店内だ。目を瞑っても開店準備くらいはできる。
 いい店だ。一見イカついがいい意味でゆるく、客はみな優しい。嬌声や大笑のない、低く穏やかな笑い声が響く店。
 奢り癖のある客が多い。今夜はご馳走になりすぎないように気をつけよう。
 早速、どうぞ一杯の声がかかる。相棒に倣って、デュワーズの水割りをいただく。ここはワインバルなのだが、どういうわけかウイスキーがよく出る。それもまた相棒らしい。
 タンブラーに氷をぎっしり詰め、割り水を先に注ぐ。デュワーズ45mlをフロート気味に注ぐ。ステアは無しだ。こうするとウイスキーを薄めながら飲める。ガツンと濃いデュワーズを楽しみつつ、後半はアルコールを冷ますチェイサーになる。仕事をしながら飲むにちょうどいい。格好もつく。
 私はグラスを上げて軽く乾杯する。
 デュワーズのスモーキーさが私の背中を押す。

 滞りなく閉店し、終電で自宅に帰る。
 N美さんが、明日の荷物をパッキングしていた。ありがたい。
 汗を流し、軽く夜食を食べ、床に着く。明日は早い。
 「忘れ物はないよね?」
 明日のことでN美さんが言ったのはそれだけだ。
 ワークショップの時もそうだが、彼女は感情を大きく動かすことはない。気負うこともなければ、心配もしない。いい年をしたパートナーが失業しているというのに、急かすこともなければ落ち込むこともない。淡々としていつも同じ表情だ。
 海に畏敬を感じるのは嵐の時ではなく、むしろ凪の時だと言う。N美さんの態度はそれに近い。
 だから、私もいつも平常心でいられる。私に不安や焦り、緊張がないのはN美さんという海があるからだろう。

 N美さんが海なら、昔馴染みの相棒の店が港か。
 新しい船出の前夜には少し出来すぎだ。

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