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第四十一話「縁①」2024年8月6日火曜日 晴れ

 元々店長だったワインバルチェーンのアルバイトの日だった。私は週頭を担当している。週頭はやはりのんびりと時間が過ぎる。本部としては苦々しく思うだろうが、私のような老頭児にはちょうどいい。ガツガツ営業せず、常連さんに甘えさせてもらっている。
 店長時代からの常連さんが何人か顔を出してくれた。そのうちの一人にひとみさんがいた。
 しっとりとした声で話す、樹木を思わせる柔らかな香水を纏う女性だ。
 都内の会社に勤めているが、ひとみさんの真の姿はアーティストのなのである。
 木目込みという日本独特の技術とペインティングを組み合わせた彼女オリジナルの表現技法で作品を発表している。(※ひとみさんのInstagramのリンクです)

 木目込みは彫刻刀で板に溝を掘り、そこに布を押し込んで貼っていく技法だ。その布をキャンバスにして絵の具をのせていくのである。
 溝による立体感、布地の質感、そこに絵画としての絵の具の表現が重なり、多重的な装いを持つ作品になる。大作はもちろん、小品であっても包み込まれるような、見上げるような大きさを感じる作品を生み出している。
 モチーフは花である。可憐な花に地母神のような抱擁力を感じさせるのが彼女の持ち味だ。
 実は、私が店長時代に店のファザード地面にチョークを使って作品を描いてもらったこともある。
 ひとみさんが一杯めの白ワインに口をつけてから言った。
「サトウさんとやりたいことがあって。それを伝えに来ました!」
 少女のように弾む声。私は、
「え?なんですか?」と間抜けな返事をする。
「コラボしませんか?」
「は?」
「わたしの個展でサトウさんにコーヒーやワインを出してもらいたいんです!」
「い?」
「絵画とコーヒーやワインのペアリングですよ!」
「は?!ーー絵と飲み物を合わせるんですか?」
間抜けな返答しか出てこない。
「そうですよー!おもしろくないですか?」
彼女は、かわいい悪戯を思いついた少女のように言った。
 おもしろいと思った。かねてから彼女は芸術は日常の中にこそあるべきだと言っていた。画集や美術館の中ではなく、キッチンやダイニングにあるべきだ、と。
 そこには語らいがあり、食がある。絵画や芸術作品の前で食やワインを楽しんで当然である、と。そして芸術はその食や語らいをより良いものにする力がある、と。
 彼女の個展に行ったことがある。その会場で彼女はワインを振る舞っていた。
 日本の茶の湯もそうだ。掛け軸の前で茶を振る舞うのだ。そもそも芸術と食は一体であったのだろう。彼女は芸術と食の関係を再構築しようとしているのかもしれない。
「やりたいです!」私は言った。
「やりましょう!」ひとみさんが答えた。
 近日中に打ち合わせを、となった。
 すごいことが始まる。
 そんな予感があった。

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