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「こころの対話 25のルール」を読んで、リモートワーク時代のコミュニケーションを考えた話

こんにちは。たかくらです。
今日は、久しぶりに本を読んで自分にとっていい体験になったので
おすすめしたいな、と思いましてnoteを書くことにしました。

この本を手にしたきっかけは、前職のときに大変お世話になった方がFacebookのタイムラインでおすすめしていたからです。
これまでに、前職のときに参加した読書会で何度かお会いしたのですが、オススメいただく本が面白かったり、すごく共感できたりと、いつもいい体験をさせていただいていたため、今回も!と久しぶりに自分用に本を買いました。

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文庫版まえがき

「自分の内側をどんな感じでいっぱいにしておきたいか?」と、自分に問いかけてみてください。「こころの対話 25のルール」はここから始まります。つまるところ、私たちは安らいでいたいし、ご機嫌でいたいのです。不安や心配、怒りをなんとか回避したいと思っています。しかし、考えてみれば一年のうち「おだやかな気持ち」でいられる日なんて、何日あるのでしょうか?

以下、好きな箇所を抜粋しつつ、コメントです。

第1章 あなたは聞かれていない。あなたは聞いていない

ほとんどの場合、聞いているような顔をしながら、じつは、次に自分が言うことを考えているのです。ときには、相づちも打つでしょうし、うなずきもするでしょう。でも、頭の中は、次に自分が何を話すかということでいっぱいなのです。
つまり、二人の間で行われているのはコミュニケーションではなくて、ただただ「ことばが途切れない」というゲームなのです。

コミュニケーションにおいては、話し手と聞き手が必要で、話し手、聞き手、話して、聞き手の順番で進んでいかなければならないのに、現実には、話し手、話し手、話し手、ただ、話し手だけが羅列されていくのです。

そしてこの「聞かれていない」「聞いていない」という状態こそが、わたしたちが抱えるコミュニケーションの問題のほとんどすべてです。と同時に、わたしたちの人生の幸福感を妨げる大きな要因のひとつになっています。

なぜなら、聞かれないということは、単に自分の話を聞かれていないだけでなく、話している自分の存在そのものを否定されたこととして認識されるからです。
逆に言えば、聞かないということは、その人の存在を否定することになります。たとえ、あなたにその気がなくても。

子供の頃に、親に今日学校であったことを話そうとしたら「忙しいから後にして」と言われたことってありませんか?

そのときに「寂しい」「なんだかひとりぼっちな気がする」と思ったことがある人は、この「聞かれていないことによって、自分の存在そのものが否定された気がする」感覚があるのかな、と思いました。

(私自身は上記のようなことを自覚していなかったのですが、その後中学生になって母親と対立したときに「母親は自分のことわかってくれへんねんな!!」と怒っていました。いわゆる中二病と呼ばれるものに分類されるような事象だと思っていました)

第2章 性格の問題ではありません。ただ、ずっと聞かれてこなかったからです。

怒りっぽい人、何か問題を起こす人、批判的な人、不平や不満の多い人・・・わたしたちが、あの人はこういう人と決めつけてしまっていることの多くが、ただ、聞かれないという経験が続いているだけのことから、起こってきている状態

そもそもの始まりは、「聞かれない」ということでした。「聞かれない」ことが、自分と他者との間に精神的な溝をつくり、自分の感情や欲求との間にも溝をつくります。そして、この他社や自分自身との分離や分裂によって生じる「孤立」「ひとりぼっち」という状態に、わたしたちのかかえる問題のほとんどが集約されるのです。

むむむ、批判的な人や不平不満をよく言う人は、その人の特徴 ≒ 性格だと、わたくし思っていました...
が、どうやら性格ではないようです。

思い返せば、小学校や中学校のときに、クラスの中でいつも何か問題を起こす人がいました。
私はその人の問題を起こすことを、「注目を引きたい」という性格の人なんだと思っていましたが、「聞かれないことが積もり積もった結果、自分の言うことを聞いてほしい」≒「注目を引きたい」という状態になるのだな、と理解しました。
そういう人と個人的に遊ぶようになると、別段変わったところのない、いい友達になることが多いのですが、ご家庭で事情があって、本人の話をなかなか聞いてもらえない、というようなことがあったのかな、と推測しています。

第5章 聞くとは、互いに同じビジョンを共有していくこと。

たとえば、ふたりの人が話していて、一方が「山って、好きだな」と言ったとします。もう一方も「そう、心が安らぐね」と答えたとします。この場合、ふたりは、ほんとうに同じ山について話しているのかというと、そうとはかぎりません。
一方は、マッターホルンのような険しい山を意図し、もう一方は、東北地方のなだらかな山脈をイメージしているかもしれないからです。
この場合、「同じビジョンを共有していく」というのは、どういうことでしょうか?
それは、一方が自分のイメージを捨て、相手のもつ山のイメージに合わせることでも、両者が妥協して、中間的な山のイメージをもつことでもありません。
両者がいったん、互いの相手の山のイメージをもつこと、それが同じビジョンを共有していくということです。
別に、自分の山のイメージを捨てる必要はなくて、ただ、相手のビジョンももってみるのです。議論は、それからです。

相手の話を聞くことを、最終的には、相手を受け入れることだとか、相手の希望をかなえることだと思っているから聞けないのです。
相手が言いたいことについて、相手と同じビジョンをもっていくこと ー それが、「聞く」ということです。両者が互いに、相手と同じビジョンを共有できたとき、二人ははじめて同じ地点に立てるのですから。

抽象度が高いところではなんとなく一致していると思ったこと、具体的に話すと「全然違った〜」となること、よくありませんか?
私個人的には「中間的な山を作っていたなー」と感じることも多々ありました。
具体と抽象の行き来をして初めて、ビジョンを共有して同じ位置に立てる、ということのようです。

読んでみて、過去を振り返ってみると、このすり合わせのためにはたくさんの質問、よい質問をしないと共有できなさそうなわけで。
平易に書いているものの、実践がとても難しそうです。


第7章 聞きなさい。相手のビジョンが見えて、聞こえて、触れて、味わえるまで。

わたしたちは、よく、なんとなくとか、もやもやしているとか、自分でもよくわからないと言いますが、もやもやしてわからなくて当然なのです。
ところが、そのもやもやした状態は、だれかに聞いてもらい、少しずつ話していくことによって、認識可能な日常のことばとなり、自分の考えていること、感じていることがはっきりしてきます。
そして、それを行うのが、「聞く」という行為なのです。

わたしたちは、物事を聞きたいように聞いて、見たいように見る傾向があります。適度に削除し、多少歪めて、「要するに、こういうこと」といった具合に、小さく囲ってしまいがちです。

実際、わたしたちは、かなり正確に素早く、相手のビジョンをもつことができます。それだけの「感受性」をもっています。でも、安心感のない状態では、自分を守ることに精一杯で、相手のビジョンをとらえようとすることができません。
もし、相手のビジョンを自分ももってしまったら、自分というものがそこなわれてしまう、相手の言いなりになってしまう、と思い込んでいるからです。だから、相手のビジョンを感じなくてすむように、感受性を抑圧し、相手への関心を抑圧しているのです。

ビジネス上のコミュニケーションでは、自分の理解度を図ったり、あるいはみんなに共有するために「要するに〜〜ということですね」「要点は3つです。1つ目は〜」というようにまとめる、要約することがあると思います。

要約すること自体は必要だと思いますし、自分の理解のために相手が言ったことをまるまる復唱するのはなんだか違うような気がするのですが、
(それはそれで聞いてもらっているか不安な気がします)
それも「安心感」がない中で要約が行われてしまう、「不安」が前提の中で行われてしまうと、たとえビジネスといえ「自分の言ったことが端折られているなぁ」とか「言いたいこととなんか違うんだけれども、それを説明しても理解してもらうのは難しいんだろうなぁ」という不信感につながる、ということだと思いました。

第10章 コミュニケーションはキャッチボール。

未完了のコミュニケーションを抱え込むと、ほとんどの時間を、たったひとりで、ボールの行方を探すことに費やすことになります。だれかとキャッチボールをしている最中ですら、頭の中では、過去のキャッチボールのボール探しをしています。
そんな具合ですから、当然、エラーしたり、あらぬ方向にボールを投げてしまったりと、いまここでのキャッチボールに集中できなくなります。
未完了のコミュニケーションは、文字通り、宙ぶらりんのまま、その人の中に蓄積され、いまのコミュニケーションに影響を与えるのです。
(中略)その未完了のコミュニケーションの代表が、「聞かれない」ことだったのです。

「コミュニケーションはキャッチボール」という言葉自体は、当たり前のように世間で言われているけれども。

なるほど、人間だもの。受け取れなかったり、そもそも間違った方向に投げちゃうなんてこと、ありますよね。
そんなときに、物理的なキャッチボールだったら「ごめん今の受け取るタイミング間違えて取れなかった!もう一回投げて〜」とか「手元がすべっちゃって変な方向に飛んじゃった!ごめん〜次はちゃんと投げるね!」と言ってキャッチボールを再開するのに、
コミュニケーションのキャッチボールだと、こんなふうにやり直しをするのって難しいのかもなぁ、とふと思ったのでした。

第12章 未完了が、恨みとなって、私達を内側から支配しているのです。

実際のコミュニケーションと、頭で思っているコミュニケーションとは常に開きがあるのです。
これは、わたしたちのコミュニケーションの反応というものが、頭で考えていることではなく、その人の中に蓄積された「未完了」によって、支配されているからです。わたしたちがついよくないとわかっていることを言ったり、思ったりしてしまうのは、相手のちょっとした言動が、わたしたちの「未完了」を刺激するからです。

人によって差はあれど、「頭の中で思っていること」と「実際の態度や言動」が違うことって誰でもありますよね。
そのときはそう思って言ったけど、後から振り返ってみると、そのときと同じような気持ちや言動で表すことができなかったり、あるいは、多少美化した状態であったり、整理した状態で伝える、なんてことはよくあると思います。
それは、そのときに受けたコミュニケーションに対して反射的に対応してしまって、それが過去の自分のコミュニケーションの「未完了」に対するもやもやから発せられたものだということです。

自分の中でそんな気持ちがあったり、はたまた相手からのコミュニケーションで「どうかしたのかな?」と思ったことがある場合には
そんな背景があるんだろうな、と思えるだけでも、ちょっと心の助けになるのではないでしょうか。


第13章 いまからでも十分、間に合います。コミュニケーションのキャッチボールを繰り返しなさい。

たくさんのことばに惑わされないですんだ分、コミュニケーションの基本的な形をとることができたのだと思います。
つまり、どっちも責めない、責められない、評価もしない、評価されない、そして、ただ、ボールを投げる、受け取ってまた投げるというコミュニケーションです。(中略)
キャッチボールがうまくつくりあげていかれたとき、お互いに安心します。その安心感があってはじめて人は、ビジネスやむずかしい内容の会話にはいっていくことができるのです。
わたしたちの問題は、この安心感という基盤をスキップして、ビジネス上のコンセンサスをとろうとしたり、相手に何かを強要したり、指示したりすることにあります。

子どものころ、母親に抱かれながら、車を見つけて「ブーブー」と言うと、お母さんは「ブーブーだね」と繰り返してくれました。(中略)
ただ、それだけで、子どもは、深い安心感の中にいることができました。
それがいつのまにか、車社会の将来や弊害について話したり、実際には観たこともない鳥の名前と分類を覚えなくてはならなくなってしまいました。
前者は、互いが目の前にあるものについて話す一次言語、後者は、いま目の前にないものについて抽象概念を話す二次言語です。そして、未完了を解消していくには、この一次言語のキャッチボールを重ねていくことが、とても役に立つのです。

わたしたちが、いつもどこかしら不安なのは、一次言語のベースが脆弱なままに、二次言語ばかりを積み重ねているからなのでしょう。
コミュニケーションの未完了は、人に、自分の何が悪かったのだろうかという疑いと、また同じ目に遭うかもしれないという不安、そして、人はしょせんひとりだという疎外感をもたらします。
未完了が完了したときはじめて人は、人といることの安心感と、自分は受け入れられているという自信を得ます。(中略)
相手の中で、未完了が解消されていくとき、あなたの中の未完了もまた、消えていくのを感じることができるでしょう。

この本を読んだこと自体は、冒頭に書いたとおり、お世話になった方がおすすめされていたことがきっかけなのですが
noteを書こうと思ったきっかけは、とある友人から聞いた転職話でした。

友人は、コロナ禍で転職をしていました。その会社では会議が非常に多いようで、友人の上司は同時に2つ並行でZoomのミーティングに参加していることもあるそう(衝撃)。

会社や仕事に馴染んでいこうと努力する中で、友人は「雑談ができない環境が、実は自分には合っていなかったんだな、ということがわかりました」と話してくれました。

私はその話をきいて、まさにこの章や本を通して書かれている「安心感の上にコミュニケーションができること」「安心感という基盤をスキップした状態で難易度の高い仕事上のコミュニケーションを行うことの脆弱性」が現れているのではないか、と感じました。
日々行えることは「雑談」かもしれません。が、この雑談の中に、安心という基盤を作るためのキャッチボールが多分に含まれているのです。

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このnoteのタイトル画像に貼った写真は、私の子と友人の子が、オーボールという小さな子が大好きなボールを投げあっているときの様子です。
彼らはまだ1歳ほどなので、相手に向かって正確にボールを投げることはできません。腕を振り上げてボールが離れたタイミングで、あちこちにオーボールは飛んでいきます。
それでも、彼らは順番にそれを行っているのです。
自分だけが投げて取りに行くのではなく、相手が投げたら自分が取りに行く。
自分が投げたら、相手が取り入って投げるので近くまで行く。
うまく飛んだら拍手をする。
そうやって、彼らは話せない中でも、オーボールを通じたコミュニケーションを行い、安心感を持って遊んでいるのです。

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いろいろな会社で「1on1」という形式で、雑談ベースでいろいろな人と対話を重ねる、という取り組みを行うことが日常的になった昨今かと思いますが
その中でも、この章にかかれているような安心感の上に、雑談ができているのか、
まだ基盤ができていないと感じた際には、一次言語でのコミュニケーションを行うことも有効そうです。

リモートワークで仕事をする機会も増えた中、みなさん予定がパンパンにつまってしまっていませんか?
出社していたときは移動の時間やお昼の時間など、息抜きをする瞬間があったのが、分単位でスケジュールが詰まってしまって、すべて段取り通りにこなさなければ!となっている人も多くなっているような気がします。

そんな中だと、貴重な1on1の時間も、一次言語のコミュニケーションを飛ばして仕事のすり合わせを行う、なんてことも出てきそうです。
時間の使い方は有効にしなくては、という思いに共感をしつつ、まずはコミュニケーションの基盤がしっかりできているか、今一度振り返りたいなぁと思いました。


ここまで読んでいただき、ありがとうございました!
自分の気に入っている箇所を紹介したものの、他にも「あぁ、これわかるなぁ」や「もやもやしていたことがこんなふうに言語化されるんだな」となるところがたくさんあります...!!!
全編で230ページほどで、文体も読みやすくさささっと読めちゃうので、興味を持っていただいた方はぜひ。電車に乗る合間や寝る前の落ち着きタイムにオススメです。

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