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67. それからのこと

 人生のある段階で会わなくなった人々に、あるいは全く変わってしまう前の自分に向けて、それからのことを心の中でそっと話して聞かせることがある。似たようなことをしている人も一定数いると思う。少しでもまた会う可能性の残っている友人知人たちは、この話し相手の中には含まれない。本当の意味で決別してしまった人々と、かつての私の分人と。会わなくなった理由はそれぞれで、ただ、その中に「死別」がまだ含まれていないのは本当に幸運なことである。

 うまくいっているのかそうでないのか、満足のいく状況なのかそうでないのかも判然としない時が多いため、主にできるようになったことを話した。それからできなくなったことも。世の中が相変わらず薄暗いこと。「夜明け前が一番暗い」という言葉に意味はなく、我々には死ぬ頃になっても夜明けがわからないこと。2,3度魂の震えるような経験のあったこと。ずっと大事にし続けていることなど。

 勇気を振り絞った経験、その後のどうしようもない挫折、掛け値無しの成功、想定内の失敗も思いがけない悲しみも、全てが恐ろしい速度で色褪せていった。
 初めて自分の死、消滅を意識した時の初々しい無力感を25になってもまだ抱えて生きているのは恥ずかしいことかもしれない。何かに執着するのが本当に難しかった。どうせ死ぬから無駄、という意見にじゃあどうしてディズニーランドに行くのか、と返した人を知っている。どうせ帰ることが分かっているのに、どうしてディズニーランドに行くのか。どうしてだろうね。全く同じ理由もあって旅行が少し苦手である。帰るスケジュールまで組んだ上で楽しまなければならない。器用さが要る。楽しく人生を過ごしたり、名を残したりすることは、いつか死ぬことと全く関係があるようには思えなかった。死んでしまえば、忘れられようが悲しまれようが、もう関係ないと思ってしまう。根本的に冷たいのだろう。
 ただ、悲観しているわけではなく、無力感の中に、成り行きは気になるという好奇心が混じり、それが今の今まで私を明日に押し出してくれた。心から毎日が新鮮で楽しい。旅行になかなか行けないのと同じ理由で、アートや文学、映画にのめり込んだ。時の洗礼を経たものの力強さに打ちのめされるのが好きだった。

 流れていく景色の中に忍者を走らせる遊びをしたことがある人は多いだろう。それがいつの間にか最後尾に乗って、流れ去る景色を見送っていた。座席が前ではなく、後ろを向いていた。明確に死を意識した小学5年生の頃からだった。座席は、どうやっても前に向けることはできなかった。病気になっても、元気になっても、夢や目標を持っても、それとこれとは全く別だった。
 流れていく景色の中に、もう会わなくなった人たちとかつての自分がいて、時折話しかけてみる。出来事が意味をなさない私の人生の中に、彼らだけが通過点として生きていた。話しかけても、いつも何の返答もない。ただただ自分が遠くまで運ばれていくのを思い知る。あなた方のいない人生を生きていきます。私のいない人生は私の消滅の上に、きっとなだらかに続いていくのでしょう。


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