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64. どうでもいい話をしてほしい

 誰かの「嫌なところ」を見た時、大体において後ろめたくなる。
 そういう時に、自分の知らない一面があっただけ、とはあまり思わない。ましてや、実はそんな奴だったのか、とは全くならなかった。ああたぶん自分がこの人の良くないところを引き出してしまったんだ、となんとなく思って、勝手に悲しくなる。

 平野啓一郎の『私とは何か 個人から「分人」へ』を数年前に読んだ。自分がちらりと考えたことを、いつだって賢い人々が理路整然と言語化してくれているのは本当に頼もしい。本は部屋を多少散らかす代わりに、散々とっ散らかった頭の中を幾分整理してくれている。
 簡単に言うと、individualではなく、dividualとして捉えること。数も大小も人によってさまざまな、少しずつ異なった人格の集合体として私たちが生きているということ。本当の自分を突き詰めて考えるのも有意義かもしれない。ただ、インドに行って「本当の自分」が見つかるわけでもなく、現金な私にとっては分人という考えがしっくりなじんだ。
 とはいえ、平野のようにはっきりと分人という概念を持っていたわけではない。どちらかというと、私にとって人格は一本の木だった。切り口が異なれば全く違う模様が現れ、どの時代のどんな自分も、年輪として静かにそこに居座っている。いつかの幼い自分は、硬い芯となって残り続ける。そしてどこにも抜け出せない。漠然とそんなイメージを持っていた。

 友人たちと騒ぐ時、飲み会で隅に座りジンジャーエールを静かに飲む時、家族と無愛想に話す時、親しい友人の隣で口数少なくなる時、職場で作り笑いを浮かべる時、そして一人の時。全てが私を構成しており、何一つ嘘ではない。その時々で都合の良い私に切り替える。たまにギアチェンジがうまくいかず、エンストする。ガッタンゴットン社交下手。コミュニケーション力の高い人は、どうやらオートマ仕様らしい。羨ましいですね。

 好きな人々が自分といる時に心地良く感じてほしい、と常々思う。自分が一番ほしい言葉をついかけてしまう。とても楽しかった、会えてよかった、と。また近いうちに、というのは好きな挨拶ベスト3に食い込んでくる(ちなみにCall me by your nameに出てくる人たらしことオリバーの口ぐせはLater!である)。自分に割り当てられる相手の分人も、一緒にいる時間も、その人にとって少しでも良いものであってほしい。
 恋人の目に映る自分が美しく見えるのもそんなわけで、あながちロマンチックなだけの比喩ではない気がする。そして、人を殺すのが悪である理由、自殺が悲しい理由も分人を介すると考えやすくなる。その人に与えられてきた分人を全て殺すこと、可能性を潰すことになるから。さほど道徳心がなくても腑に落ちる考えである。

 そして、どうでもいい話をされるのが本当に好きである。スーパーの惣菜がとんでもなくマズかった、とか、上司のあだ名が悪意に満ちて的確すぎる、とか。そんなことでいい。自分といるときの相手の分人の大きさや手触りのようなものを感じることができるような気がして、嬉しくなる。いつも友人たち相手にくだらない話が止まらない。先の話ばかりでなくたっていい。元気いっぱい前向きゴリラでいる必要もない。将来の話、昔の話、後ろめたい話や生活の話。どれも尊い。自分といなかった時の相手に、分人を通して少しだけ触れる。葉っぱを陽に透かしてみるみたいに、そっと窺い知る。
 分人の総量みたいなものがあるとすれば、人によってさまざまであっても、割合限られてくるように思う。同じ話を相手を替えて話していても、飽きるのが普通である。「どうでもいい話」が減ってくると、「自分の割り当てが減ったのか……?」などと変に勘ぐってしまうことがある(残念ながら恋愛においてはよく当たるやつです。浮気してる皆さん、雑談は手を抜かないように)。欲張りを自覚しつつ、手を組み替え脚を組み替え、いつまでも話し込む。ゲラゲラ笑う。押し黙って、静かに満たされる。また近いうちに。

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