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68. 墓場まで持っていく

 憧れを、できれば憧れのままとっておきたい。ジップロックなんかに入れて、できれば密封保存して、冷暗所に保管しておきたい。腐って嫌な匂いと変な汁を出しているそれを、自分の手で摘んで捨てる悲しみは本当に耐え難い。

 憧れの人と勉強を教え合ったこと。緊張しながら電車で隣の席に座り、映画館に向かったこと。席替えで隣になって授業が楽しくなったこと。初めて手を繋いで歩いて、自分の両足の所在が分からなくなったこと。数えきれない。のちに全て怒りと屈辱で潰れてしまった。
 思い出だけは大事に、という考えはいけ好かない。大人になったその人は切り分けて覚えておくということが、私にはできなかった。2度と顔も見たくなくなるなんて。カラオケで楽しく歌ったそいつの好きな歌でさえ耳障りになるなんて。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いとはよく言ったものである。
 人との出会いの全てが良い経験だとは、私は思わない。できれば、人を憎むことを知らずに生きていきたい。5年以上経っても全く許せないことがあるというのが、私には幼稚だとも、狭量だとも思えなかった。折に触れて、見当違いな私怨が顔を出さないように気をつけるくらいで、精一杯だった。なつかしさは痛みとは相性が良いのかもしれない。ただ、怒りとは致命的に相性が悪いということを嫌というほど学んだ。

 恋愛に限らず人間関係がややこじれ始めると、ああ私はこれを知っている……と思ってしまう瞬間がある。仄暗い進研ゼミの漫画である。過去編で見たやつだ!というわけである。
 まだ一つ、知らないものがある。結婚。映画一本撮れそうな恋愛結婚の末に、警察沙汰になる夫婦生活を送る羽目になった両親を見ている。それでもなお、ささやかな憧れを持ち続けてしまう。めちゃくちゃ馬鹿かもしれない。甘い結婚生活は全く期待していなくても、生活を共に生き延びる戦友が一人できることにどうしようもなく期待してしまう。戦友ではなく宿敵になるかもしれないのに。

 この憧れも墓場まで大事に持っていくべきなのかもしれない。

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