ノゴマ

好きなことをしていたら、周囲の人がつられて楽しんでいた。

私の趣味は自然観察だ。
1年前までは、それは仕事でもあったけど、いまは一旦休んでいる。
それで、自然観察というのは、平たく言うと、野外で気になったものや調べたいものについて観察することで、これがとても楽しい。
物事には必ず因果関係があって、観察を通してそれが分かったり、単純に今見ているものが他のものと区別できるようになったり、動物だったらその行動に興味が湧いたり、気づくと色々楽しい。
何が心に引っかかるかは人それぞれで、私の場合その範囲が広いように思う。

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綺麗な花、目立つ虫、鳥や動物は当然誰の視界にも入ってくる。でも、多くの人が見向きもしないような、地味なものや些細なことが気になったりする。その観察のために、同じ場所に数時間いたりすることはしょっちゅうだし、人が行き交う都会で動植物の観察を始めたことだって数え切れない。寒さで動きがとんでもなく緩慢になったアリの足が、どの順番でどう動いているのか見られた時は大はしゃぎした。同じような分野で働く友人・知人でさえ私のことを「マニアックだ~。」と言う時がある。
自分でもそう思う。だたし、この上をいく人は、この世には山程いるので、私は序の口と思って欲しい。

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それで、私はそうした面白いと思ったことを人に押し付けることはない。
「見てこれ、すごい!おもしろ~い!」とお知らせすることはあっても、
「これが○○だ。凄いんだぞ。良いでしょ!」とはしない。
一緒にいる人に合わせて解説は必要に応じてするけれど、ゴリゴリ推す(教える)ことはしない。自分と同じように感じ・考えるかどうかは、その人の興味や、感性、知識量、経験量に大きく左右されるし、それに、押し付けられたことが素直に入って来る人なんて滅多にいないだろうから。

そんな私が、人と一緒に野外を歩いていると、その人が今まで見向きもしなかった事に自身で気づき楽しんでいた。私と一緒に歩くと、自分の内側にある感覚に気づくと言われたこともある。また、ある人は、少年を見ているようで楽しいと言った。あるいは、肩の力が抜けると言う人もいた。

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私はカウンセラーではないので、意図してそうなるよう導いているわけではないし、そうしようと試みたこともない。素人がうかつに手を出したら、相手を支配する行為になるんじゃないかと恐れ、むしろ避ける意識がある。なので、ただ自然体で、思うままに観察を楽しむだけだ。
それなのに、一緒に歩きたがる人はやって来る。なんでだろうと疑問に思ったことがある。自然解説が聞きたいから?道案内役が欲しいから?話し相手が欲しいから?考えた結果、一緒にいる人が自由な私を見て、つられて自分を開放して楽しんでいるんじゃないかと思い至っている。それともう一つ、私は一緒にいる人が、楽しい・見たい・知りたい・聞きたい、そんな風に思うものが出てきたら、邪魔にならないよう寄り添っているように思う。解説こそすれ、そこで出番とばかりに前に前に出しゃばれない。
これも一因かもしれない。

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昔は、その楽しい嬉しいという感情を内側にひっそり閉じ込めて、自分の中だけで楽しんでいる根暗だった。ある時からそれを外に出すように意識したら、一緒に歩く人の表情が変わっていった。だから、出し惜しみしないで、楽しいという感情を出すようにした。私のようなヘンな人は楽しいのだ。

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楽しいは広がる。
今、その影響を一番受けているのは、夫のようだ。
趣味は車で、自然観察なんて人生史上皆無だったはずなのに、今では双眼鏡やカメラを手にすっかり野鳥観察を楽しんでいる。なにぶん語彙力がないので「可愛い。」しか言えてないけど、それもまた楽しいから良しとしよう。

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