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第6章 奇妙な事実──斜めの家 立石遼太郎

サン=ラザール駅の中央ホールに入ると、私小説の世界に入り込んだような奇妙な印象に襲われた。
ミシェル・ウェルベック『セロトニン』(関口涼子訳 河出書房出版、2019)

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本連載も折り返し地点を迎えようとしている。「建築におけるフィクションとはなにか」。本連載の主題に対し、これまで僕らは「フィクション」という言葉を精査することにより、論を前に進めてきた。ここで一度、これまでの議論を整理したいと思う。

0.1 第1章《青森県立美術館》——サバイバルライン・計画学内人間・ステートメント

第1章。《青森県立美術館》を通じて建築がフィクションの世界に入り込む可能性を探った。論旨を簡潔にまとめよう。
●マリー=ロール・ライアンを参照し、「フィクションのサバイバルライン」という概念を見つけ出す。
●計画学はフィクションであり、「計画学内人間」がサバイバルラインを乗り越えようとする事態が、建築と現実との乖離を引き起こす。
●建築家のステートメントがフィクションであること、そしてステートメントが建築物の解釈を縛り付ける——つまり一般的には建築物がステートメントに従属している関係を確認する。
●その一方で、青木淳《青森県立美術館》におけるステートメントは、建築物と並列の関係にある。
●建築物とステートメントが並列の関係にあることで、建築物はフィクションに、ステートメントは現実に、片方ずつ足を置いたような状態となる。
●フィクションのサバイバルラインの上に、《青森県立美術館》がある。

0.2 第2章《古澤邸》——主題としてのhow・虚構システム・「今、ここ」の揺らぎ

第2章では、建築の主題とはなにか、ということを検証しつつ、古澤大輔の自邸である《古澤邸》の解釈を試みた。
●5W1Hのうち、初期設定で語られなかったものが物語の主題となる。
●建築の主題はhowにしか残されていない。
●フィクションは、虚構システムと虚構物語に分けられる。
●howは虚構システムをつくり上げることだが、この手続きは第1章の計画学内人間と同様、フィクションのサバイバルラインを乗り越えてしまう。
●建築物には複数の虚構システムが存在し、しばしば虚構システム同士が軋轢を生む。虚構システム同士の軋轢が、フィクションと現実の軋轢となる。
●《古澤邸》はhowによって梁とスラブを分離するが、梁が建築物の全容を隠し続けるため、「今、ここ」の風景が、「先ほどまでそこにいた」という記憶とオーバーラップを起こす。
●一般的な建築物は、軋轢が固定されることで、現実と乖離を生み出すが、《古澤邸》は、軋轢が絶えず生じることで、現実そのものが消え去るような感覚を受ける。——つまり、現実と記憶のオーバーラップが絶えず起こることで、現実の最大の拠り所である「今、ここ」が揺らいでいく。
●この事態は、《古澤邸》の主題にwhereとwhenが含まれることを意味し、したがって《古澤邸》は極めてフィクショナルな建築物ということができる。

0.3 第3章《白の家》——象徴・虚構物語・批評というフィクション

第3章。象徴という言葉の分解を試みながら、虚構物語とはなにかという検証を行う。その後、「篠原一男《白の家》はなにも象徴していない」ことの証明を行い、「批評とはそもそもフィクションである」という結論に達する。
●象徴を分解し、象と徴の二字熟語を集める。
●象と徴の二字熟語は、表徴→表象→徴表→抽象概念の抽出→抽象表現というように、段階的なプロセスを踏む。
●ところが象徴は、ひとつのプロセスで成立する。プロセスは、「形なきもの」に「形あるもの」をあてはめ、そこに「脈略なき虚構物語」を組み合わせるという形式を取る。
●篠原一男《白の家》の象徴は、上述の象徴の手続きを踏んでいないことから、なにも象徴していないことになる。
●しかしながら《白の家》=象徴というミスリードが、《白の家》にまつわる批評を多弁にしている。
●批評はドキュメンタリーでもルポルタージュ、ノンフィクションでもなく、多様な解釈を許すフィクションである。
●批評がフィクションであるからこそ、建築物は多様な解釈を許すことになる。

0.4 第4章・第5章《2004》《弦と弧》——かわいさ・理想と虚構・純粋な物語

第4章と第5章は、第2章、第3章で検証した虚構システム・虚構物語の総括として位置付けた。なぜ中山英之の一連の作品にフィクションの気配を感じるのか。この疑問を足がかりとして、大澤真幸の「理想の時代」と「虚構の時代」や、ハイデガーの「道具的存在者・事物的存在者」という考え方を通して、議論はやがて「純粋な物語」にたどり着く。第4章・第5章において、建築とフィクションが最も漸近していく。
●中山英之《2004》のかわいさと、その他一般的にかわいいとされている建築物の違いはどこにあるか。
●中山の提唱する「物語」と「原稿用紙」はそれぞれ、虚構物語と虚構システムに対応する。
●しかし物語と原稿用紙だけでは、《2004》は説明し切れない。
●ここにペンとレトリック、それから登場人物を用意する。
●《2004》は道具的存在でも道具的存在者でも、事物的存在者でもない。
●理想も虚構もフィクションである。
●理想は虚構物語に虚構システムを重ね合わせることで現実に位置付けることができる。虚構システムは、虚構物語がフィクションのサバイバルラインを乗り越えようとする時に、有効に働く。
●一方、虚構は虚構物語そのものがフィクションのサバイバルラインを乗り越えようとする。現実と虚構が乖離するのは、虚構システムの不在に由来する。
●理想はコンセプトと同じ構造を取るが、虚構システムが時代にそぐわなくなると、現実との乖離を引き起こす。
●基本的に建築物の構成要素=登場人物は、コンセプトに従属する。
●《2004》の登場人物は、コンセプトに従属しない。めいめい勝手気ままに存在している。お互いに関係をもたない。
●登場人物がお互いに関係をもたないからこそ、《2004》という舞台の上で、登場人物は自由に物語を描くことができる。
●コンセプトに従属しない登場人物のふるまいこそが、「純粋な物語」である。
●「純粋な物語」を描くからこそ、「, and then」は成立する。
●道具的存在者は、物事の道具性の破れによって事物的存在者となるが、中山の一連の作品は、役に立たないわけではない。役に立つが、記号性が破れているものを、「修辞的事物的存在」と名付ける。
●《弦と弧》を形づくる要素は、修辞的事物的存在であるが、互いに独立してはいない。形式性の強い虚構システムによって各要素が構成されている。ゆえに、純粋な物語ではなく、虚構物語に近い。
●《弦と弧》が虚構物語であることを、中山は自覚している。

1 扉を開ける前に

《青森県立美術館》が「フィクションのサバイバルライン」を、《古澤邸》が「虚構システム」を、《白の家》が「虚構物語」を、そして《2004》と《弦と弧》が「純粋な物語」を用意した*1。
現時点で僕らが手にしているのは、「建築においてもフィクションと似たような物語を描くことができる」という、その可能性である。
建築物とステートメントの関係を並列にすること。howにのみあった建築物の主題をwhenとwhereにずらすこと。批評がフィクションであるということを自覚すること。コンセプトから独立した登場人物を描くこと。
フィクションの扉は開かれようとしており、僕らは扉の手かけに触れている。
しかし、扉を開こうとしている僕らは、あくまで「現実」の側にいる。僕らはまだ「現実とはなにか」ということについて、なにひとつ検証してはいない。なにもわかっていないのだ。僕らが今まさに開こうとしている扉が、「フィクションのサバイバルライン」の比喩であるとするならば、「現実」というシステムを理解しないまま扉を開こうとするその行為こそが、フィクションのサバイバルラインを乗り越えることにほかならない。虚構システムなき虚構物語が、現実と軋轢を生むのと同様に、現実のシステムを理解しないまま物語の世界へ入ることは、軋轢を生み出してしまう。
これまで僕らは、フィクションの側に立っていた。フィクションの側に立ち、どのようにサバイバルラインを乗り越えれば、建築と現実がうまく作用するか=おもしろくなるか、という議論を行なってきた。そう、議論のベクトルはいつも、フィクション→現実であった。
「建築におけるフィクションにまつわる考察」は、ここからフィクションの対義語という新たな主題に入ってゆくこととなる。ベクトルは180°回転する。すなわち、現実からフィクションへ。
象徴がそうであったように、物事は総体のまま理解することはできない。分解と理解は同義だ。まずは、現実を分解してみたい。現実を分解することで、それを理解しよう。そうしてようやく僕らはフィクションのサバイバルラインを乗り越えることができるだろう。対義語を理解することで、フィクションはより鮮明にその輪郭を見せる。その先に待ち受けているのは、フィクションの分解だ。
残された章は7つ。これから3章を費やして、現実を分解する。続く3章でフィクションを分解しよう。そして最後の1章で、分解されたものがやがてひとつの像を結ぶだろう。像を結ぶべき場所は、《青森県立美術館》である。

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