見出し画像

異なるネットワーク観を解きほぐす ──自主ゼミ 「社会変革としての建築に向けて」レポート 寺内玲・松岡大雅

建築家・連勇太朗が、ゲスト講師を訪ね、執筆中のテキストを題材に議論する自主ゼミ 「社会変革としての建築に向けて」
2021年8月10日に行われた第1回、建築家・能作文徳との議論のレポートです。
執筆者は、「人間的である、ということへの追求から社会を拓く」を目指す共同体とZINE『HUMARIZINE』を主宰・制作する寺内玲と松岡大雅。

異常に暑かった日の夕暮れ時、私たちは「西大井のあな」を訪れた。自主ゼミが行われた3階には、生まれて半年の子どものためのベビーベッドが置かれ、岡本太郎のミニチュア鯉のぼりが天井から吊り下げられていた。その名の通り1階から4階までが「あな」で繋がっていて、下階からは赤ちゃんの声が漏れ聞こえ、大きなガラス窓の外からは新幹線の音が聞こえてくる。「都市のワイルド・エコロジー」というサブタイトルを持つ能作文徳の自邸にて、連と能作の議論が行われた。

画像1


振り返ってみると、その議論は「ネットワーク」という言葉をめぐるものだった。それは建築の見方である以上に、私たちが生きている世界の見方でもあるように感じられるものだ。ここでは、「システム」「社会課題」「時間」という3つの観点から、この「ネットワーク」という概念を解きほぐしてみたい。

システムの複層化へ


連と能作のネットワーク観の違いを明らかにするために、まずは「システム」という言葉について、両者がどう捉えていたかをまとめたい。ここでいうシステムとは、人間社会において構築された、仕組みや制度といった構造のことである。
能作にとって、ネットワークとシステムは明確に異なった意味を持つ。システムを考える際には外在的な観察者の視点が必要となるが、能作の態度はそれとは逆の内在的なものだ。自らがネットワークの一部として存在することが大事だと考えている。能作にとってのネットワークは、全体を規定するシステムを想定しない。この意味で、能作はシステムについては関心がないという。
その一方で連は、ネットワークを説明するためにシステムという言葉を多用する。ソーシャル・イノベーションの分野では、社会課題を構造的に捉えて、解決策の提案・実装を目指すシステム思考が一般的である。連は慶應SFC学部生の頃からモクチン企画の原型となる社会的な活動を展開しており、ソーシャル・イノベーションと建築を分野横断的に長く実践してきたといえる。その結果、建築というネットワークを概観するとき、開発のシステム、不動産のシステム、ご近所のシステムなどといった複数のシステムが、層状に重なり合っているように見えるらしい。つまり、連はシステムが複層的に重なっている社会像を持っている。
今回の書籍のための書き下ろしテキストの副題にもある「複雑なネットワークを構築せよ」とは、複層している既存システムの力を利用し、そのレイヤーの間を縫うような、新たな小さなシステムを建築の力でつくり出せ! と訴えているのだ。このシステムを複層化する姿勢こそが、社会変革(ソーシャル・イノベーション)としての建築に求められている。
改めて能作の建築を考えてみると、システムを想定しないからといって、社会変革と無関係な建築であるわけではない。例えば「明野の高床」という住宅では、既存のコンクリート基礎とはまったく別物の、土壌に配慮した鉄板の基礎を開発している。資本主義や市場原理によって高度に構築されてしまったシステムを相対化することで、自らの建築をつくり出している。自らがネットワークの内側でふるまうことで可能となるソーシャル・イノベーションも存在する。これもまた、複層化への姿勢として捉えることができるだろう。

社会課題への個別解/一般解


複層化を志向する姿勢が両氏に見て取れたところで、こうした建築・ネットワークに対する向き合い方が、社会課題とどのように関連しているのかを振り返りたい。端的に図式化すると、連は一般解を、能作は個別解をつくろうとしている。
例に挙げた「明野の高床」では、クリティカルに建築における基礎を刷新している。通常、コンクリートに覆われてしまう土壌を活かし、土中の虫や微生物と共生することで、食料の自給や廃棄物の堆肥化などを行うことができる。こうした環境負荷の少ない生活は、気候変動や環境破壊といった大きな問題の解決にも貢献できるだろう。もちろんこのひとつの建築物だけで地球規模の課題が解決されるわけではないが、より良い方向への道筋を拓いている。

画像2

「明野の高床」 撮影:鈴木淳平


連はこの作品に対して「鉄板の基礎を商品化して、普及させないのか」と質問していた。能作はその点には興味がない様子だったが、社会にインパクトを与えるためには、普遍化し持続可能なビジネスにすることが求められる。連は、木造賃貸アパートを一から改修するのではなく、改修のメソッドを「モクチンレシピ」として普遍化することで、木造賃貸を取り巻く課題に対して、より広域的な解決を提案している。

画像3

「モクチンレシピ」

そのような活動をしてきた連は、能作のように個別解をつくり出し続ける建築家のクライアントワークに対して、問題提起をしている(もちろん否定しているわけではない)。社会的課題を解決するために建築家は、個別解をつくり出すだけでなく、今後も活用可能な形式として一般解を出すことができるはずだ(そうした新しい建築家像への希望を示そうとしているのだ)。しかしながら、現在の建築のディシプリンはその可能性をまだ模索できていない。ここに向けて書かれるのが『社会変革としての建築』であるといえる。
一点指摘しておきたいのは、一般解もまた資本主義や市場経済といった巨大なシステムの養分として飲み込まれてしまう危険性があるということだ。そうならないために、時間という観点に関する両氏の議論も振り返ってみたい。

ネットワークと時間──フロー/デュレーション


松岡の個人的な興味から「ネットワークと時間の関係性についてどう考えるか」と両氏に質問した。興味深いことに、能作は「フロー」、連は「デュレーション」というネットワークと時間に対する明確な言葉を持っていた。「フロー」と「デュレーション」は決して対立する概念ではなく、むしろ「社会変革としての建築」を目指すにあたり、互いを補完し合う概念だと思えた。
「フロー」とは、上流から下流に向かって流れる、マテリアルやサービスの動きを示す言葉である。建材を考えるときに、上流に森林資源などがあり、下流に廃棄物がある。そして上流から下流に時間が流れているうちの一点に、建築物がある。これらの一点一点は高度に産業化されているため、どこで何が起こっているのかが見えにくい。産業(システム)に従属的になるのではなく、それらの「フロー」を見える化していき、必要あれば新しいフローを生み出すことを能作は行っているといえる。
「デュレーション」とは、建築を建てた後にも関わるネットワークの持続性を示す言葉である。社会課題の解決を目指すとき、建築によるネットワークが長期的に成長していく必要がある。しかしながら、現在の建築家は、建築物を設計した対価としてフィーを受け取るため、建築物の完成後に関わることが難しい。連は、このようなクライアントワークの限界を指摘し、新しい設計領域としてデュレーションの必要性を述べている。持続可能なシステムとしてネットワークを成長させていくためには、建築家による継続的なコミットメントが必要である。そのための新しいデザイン/ビジネスを、連はモクチン企画で実践している。

画像4

建築物の背後にあるネットワークをデザインできるか


ここまで「システム」「社会課題」「時間」という3つの観点から、両氏のネットワークに関する考えを整理してきた。ふたりの建築家が、建築「物」の周辺に何を見ているのかが明快になったように思う。ネットワーク観の相違はあるものの、両氏には、建築物単体ではなく、その背後に存在するものを積極的に追跡し、デザインの対象にしていくという共通の姿勢がある。そんなふたりの後輩にあたる私たちとしては、能作からは「建築を設計することによってできることがもっとある」ということを、連からは「設計した建築によってできることがもっとある」ということを、とても力強い激励として受け取った。
建築は、これまでも建築家の脳内のイメージだけで完成するものではなかったはずだ。喫茶店のナプキンに描かれたスケッチが、そのまま現実空間に立ち上がるわけではない。土地や天候、材料や構造、大工や利用者、様々なリアリティに応答することで、徐々に建築になっていく。建築は、人間・非人間問わず、現実世界のたくさんの関係のなかから出現する、リアリズムの産物である。
加えて、人間の活動が地球温暖化に影響を与えていることが明らかになり、日本列島は毎年のように豪雨災害に見舞われている。このように現実世界の崩壊の音が至るところから聞こえてくる現在、リアリズムのためのデザインの対象として、ネットワークが浮かび上がってくるのは必然といえるかもしれない。この時代を生きる建築家は、ネットワークの一部としてどのように振る舞うのかが問われてくるだろう。リアリズムを反映する思想を理解することができる私たちは、これからの社会を少しでも良いものにしていくために、何ができるだろうか。このとき、ネットワークの中にある個人が問われてくることになるだろう。

ネットワークは個人からつくられる

社会変革のためのネットワークを構築することができるのは個人に他ならない。私たちは今回の議論を経て「ネットワークにおける個人はどのように扱われるのだろうか」という疑問を持った。連と能作の議論はネットワーク観を多角的に考察する意義深いものであったが、実際にネットワークをつくる主体について、多く語られることはなかった。本当に社会を変えるには、必要とされるネットワークを構築する個人が必要なはずである。私たちは、最後にこの個人について考えて、レポートを締めくくりたい。
従来の社会変革や課題解決には、どこか個人を抑圧し、個人が全体に倣うことを強いるような印象がある。例えば「社会のために建築は外に開くべき」と宣言された瞬間に、そうは思えなかったり、そう思い続けることに苦しさを感じたりする人を置き去りにしてはないだろうか。一方、連がいう「ネットワークの複層化」は、一部に庭を開いたり、店舗を併設してみたり、はたまた外に開かなかったりなど、様々な態度が許されることを意味している。その代わりに求められるのは、持続的に課題に向き合うためのネットワークのデザインである。その意味において、この建築論「社会変革としての建築」では、ネットワークを構築する主体となる個人は極めて自由である。連も結局のところ建築が好きで、建築論が書きたくて、社会変革への欲望を持つ一個人なのだ。そこにはネットワークへの介入の動機となり、そして継続的なネットワークへの参加のモチベーションとなる、個人の自由な感情がある。一元的なべき論が提示するような、同調圧力もなければ、禁欲的であることが求められているわけでもない。ネットワークを前提とすれば、社会変革のために、私たちにできることはたくさんあるに違いない。
今回の議論を経て、私たちは絶えず固定されないネットワークのイメージを獲得することができた。それは、相互に影響を与え合うもの同士の関係ともいえる。この自主ゼミに参加している私たちは、連と能作の議論から影響を受ける。今後も、様々な議論から影響を受けることだろう。そして、この作用から、私たちはまた何らかの行為をするだろう。もちろんこうしたレポート執筆が、ゼミ参加者の考えや、連の新著に反映される可能性だってある。こうした相互作用が起こった先に、この自主ゼミのネットワークの可能性があるように思う。
ネットワークは一夜にして生まれるものではない。だから持続性や成長が大事であり、ネットワークの内部に存在する個人こそ、大切にされるべきなのだ。あなたが、自らの身体性を動員し、自らがネットワークの一部となって行為し続けることが極めて大切であり、そのようなネットワークが同時多発的に生じている未来が見たい。競争のなかの個人主義ではなく、ネットワークのなかの個人主義である。「社会変革のための建築」とはいかにも高尚な論に映るが、今の時代において、社会のなかの人間として、私たちが共に幸せになるための方法論なのだろう。


寺内玲(てらうち・れい)
1997年生まれ。2020年慶應義塾大学環境情報学部卒業。2021年9月からスペイン・バルセロナにあるIaaC(Institute for advanced architecture of Catalonia)のマスターコースに進学予定。
2019年、共に現代社会をサバイブしていくための共同体「HUMARIZINE」を発足。自身や仲間たちの実践をアーカイブし世の中に展開していくために自費出版雑誌(ZINE)を毎年出版している。3冊目にあたる『HUMARIZINE』No.02「家族」絶賛販売中!

松岡大雅(まつおか・たいが)
1995年生まれ。東京都・狛江市出身。2021年慶應義塾大学政策・メディア研究科修士課程修了後、フリーランス。2021年9月から寺内とともにスペインに渡航。
建築設計について学びながら、近年は廃棄物に惹かれ、それらを用いた制作を実践・研究している。寺内と『HUMARIZINE』を出版し、これら実践・研究について執筆。

自主ゼミ「社会変革としての建築に向けて」は、ゲスト講師やレポート執筆者へ対価をお支払いしています。サポートをいただけるとありがたいです。 メッセージも是非!