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【後編】東大生の全力・読書感想文 『中動態の世界』 〜どう生きるか〜

めい🌱
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発信しながら地域に飛び込む現役東大生(休学中)。

2022年3月、
半年間、長野県塩尻市に滞在した体験をまとめた本を出版しました。



前編はこちら。
主に、『中動態の世界』の要約。
かなり抽象的なので、お時間のあるときに読むのがおすすめです。




前編では、『中動態の世界』において語られている、
中動態をめぐる哲学や歴史などについて、
「非常に大雑把に」まとめてみた。

それでも、9000文字とかいう
とてつもない分量になってしまったのだが、
気を取り直して本題に入ろう。

そう、まだ本題にすら入れていなかった。
もともとは、『中動態の世界』を読んで私が感じたこと・考えたことを
備忘録的にまとめようと思っていたし、
読書感想文ってそういうものだと思う。

けれど、あまりに「中動態」という考え方が、私たちの普段の生活には馴染みが薄く、少しだけでもその哲学に触れておきたいという思いが芽生え、
つらつらと書いていたらこの有様だ。


以下では、『中動態の世界』を読んで、または読みながら、
私の中に湧き上がってきた思いや考えをまとめてみる。

ここからは本当に「つらつら」と書いていくので、
たぶん、順番とかにはあまり理由はないと思う。

01. 「わかる」とはどういうことか?

本書を読みながら、ずっと考えてきたことの一つだ。

「わかる」とはどういうことだろう?

私にとって、決して易しくはない内容だったが、
自分の頭を使って考えながら読み進めると、言っていることがわかる。
いや、「わかる気がする」。

実は、私は一度、2年ほど前に
この本を読もうと挑戦したことがあった。

しかし、そのときは、たしか本の1/3も読めずに脱落してしまった記憶がある。
「理解」して読んでいたのは、初めの数ページだけだったんじゃないかというくらい、
もうわけが分からなかった。

そんなことで諦めてしまったこの本、幸か不幸か、図書館で借りてきた本ではなくて、自分で購入した本だった。
いつか、読める日が来るかもしれないと半ば諦めながら本棚にしまったが、
それから約1年半後、引越しのタイミングで久々に対面した。

なぜかそのとき、
この本を読んでみようと思った。
あんまり力を入れて読むつもりはなかったし、
また理解できなければ、私には難解すぎたんだと思えばいいと、
軽い気持ちで再読し始めたのだ。

ところが驚くべきことに、面白いくらいに「わかる」。
正確にはわかっていないのかもしれないけれど、
少なくとも、次のページを読みたいと思わせる何かがある。

気づけば、本当に少しずつ、少しずつ時間をかけて、
読み初めから3ヶ月ほどたった先日、ついに最後まで読んでしまった。


初めて挑戦したときから1年半。
この間に、私のIQがものすごく高くなったとか、
私が哲学に関する勉強をものすごく頑張ったとか、
そういうことはなかった。

でもなぜ、こんなにも面白いと思えるようになったのか。
少なくとも「わかった気がする」と言えるまでになったのか。
要するに、

わかるって、何!!!

と、いうことだ。

この問いに明確な答えを与えることはできないけれど、
こういうことなんじゃないかと考えていることはある。

「わかる」のではなく、「解釈し直している」

そう言うことはできないだろうか。
前編でもまとめたように、中動態の世界では、
私たち「個体」は外部からの刺激を常に受けながら、自分の「本質」の表現として行為している
と捉えることができた。

「二次的な変状」において、私たちは完全なる受動ではない。

これは、「わかる」とか「わからない」とかいう話も同じで、
私たちは、参考となるテキスト・音声教材・先生の話といった
「外部からの刺激」としての「教え」を与えられ、
それをそのまま飲み込むのではなく、

そういった私たちの外部に溢れている「教え」を、
自分自身の言葉やイメージ・図などを用いて
自分なりに解釈しなおしている

と言えないだろうか。
そういう意味において、「わかる」も中動的である。

そうすると、この本を楽しく読めるようになったという変化も、
比較的簡潔に説明できるような気がする。

つまりは、
私がこの一年半において、「生き方」「世界の捉え方」「自分と周りとの関係性」といったことに関して
数え切れないほどの人との対話をしてきた経験によって、
私の中に、たくさんの「生き方」「考え方」の引き出しを得たために、

『中動態の世界』で語られている事象を
私なりの具体的な考え方や人・環境を例にしながら読み進めることができた、
そしてその行為の中に、これまで見聞きしてきたこととの共通点や、みたこともない新しい発見を見出した、

ということだ。


02. アクティブラーニングについて、少し考えてみる

そう考えると、
私自身がこれまでしてきた「勉強」は

教科書に載っていることや先生が言っていることを、
自分の言葉で説明できるようにする

ということだったんじゃないかと思えてくる。

高校では愛知県の進学校の一つに入学し、
ギリギリではあるが、現役で東大に合格した。

そんな私は、よく人に

どうやって勉強してきたの??

と聞かれる。
これまでは、「勉強が得意で好きだった」だとか、「自己流なので、参考になるか…」とあまり的を得ない回答をしてきた。

実際、勉強が好きで得意だったということはあるし、
私の勉強法はわりと自己流だ。

でも、一つだけ言えるとしたら
「とにかく自分の言葉で説明できるようになる」
まで考える、ということをしてきたんじゃないかと、思ったのだ。

振り返れば、それはたぶん小学生の時から始まっていて、
私は初め、繰り上がりと繰り下がりの計算の意味が分からなかったし、
割り算が分数になるのも、わけが分からなかったし、
一つの文を「文節」とか「単語」に分ける問題が苦手だった。

このとき、「そういうもんだ」と思いこむのではなく、
ひたすらに考えて、大人に聞いていた気がする。

特に、割り算が分数になるのが分からなかった件については、
母に何度も楯突いて(笑)
自分の言葉で解釈できるようになるまで
いろいろな方法で説明してもらったような気がする。

高校3年生の受験期も、
私が取り組んでいた問題集の数は、周りと比べて圧倒的に少なかった。
塾にも行っていなかったし、持っていたのは、学校の問題集と、毎月届くベネッセの教材と、赤本だけ。

何分かけてでも自分で考えて問題を解く、
あまりに解けなさそうな問題は、解説をみて、それを自分の言葉で再解釈する、
解説の言っている意味が分からない時は、先生のところに行って分かるまで考える。

これをひたすらやっていて、
一つの問題に3時間とか4時間とかかけていたものだから、
一向に問題集が解き終わらなかった(笑)

でも、これが私にとって最適な勉強法だったんじゃないかなと、
振り返ってみて思う。
そして何よりも、このように自分の頭で考えることが
とても楽しかったのだ。

精神的に焦りを感じていた受験直前の私にも、こう言って落ち着かせてあげたい。



長々と自分のことを書いてしまったが、
日本の今の教育について抱いている違和感のようなものも、ここに書き出せたらと思う。

「正解を出すこと」に絶対的な信奉がおかれ、
正解・不正解だけが大事な問題になってしまい、
正解するための知識を詰め込むような教育。

このような受け身の授業ではなく、生徒の「主体的・能動的」な学習を目指し、
「アクティブラーニング」という言葉が使われることもあるが、
一度ここで「アクティブラーニング」について考えてみたい。

なんせ、『中動態の世界』において「能動」と「受動」の対立構造の限界と、
そうではない「中動」という考え方が提示されているのである。
そんな本を読んでしまった私は、
「受け身ではなく、能動的な学びを」
といった言葉を、そのまま受け入れることはできなかった。

『中動態の世界』を読んで、これまでしてきた自分の勉強や
「能動と受動」の対立の限界について考えてみて、
「能動的な学び」は「受動的な学び」の対極にあるものではない、と思うようになった。

先生や教材からの一方通行の授業ではなく、
生徒自身も発言し参加できるようなグループワークを。

ただ授業を聞いているよりは
いわゆる「主体的」な学びの場になるかもしれないが、
これでは、多くの現場で、グループワークをすることそのものが目的になってしまう。

そうではなくて、目指すは「中動態の世界」における「能動的」な学びの場ではないだろうか。
そして、そこから生まれる「自由」な学びではないだろうか。

スピノザが目指すべきと述べた「能動」とは、
個体が外部からの影響を受けながらも、自らの本質を表現することであった。

同じように、生徒に対する「外部からの刺激(=教え)」の量を増やして質を高めると同時に、
生徒が持つ「本質(=生徒自身の言葉、興味、得意)」を表現できるような教育こそ、
「主体的・能動的」と言えるのではないかと思った。

たとえ、自分を起点にして外部に影響する行為(たとえば授業内での生徒自身の発言)があっても、
そこに本人の本質(たとえば、その生徒は言葉よりも絵で示したい)が表現されていないとするならば、
その学びは「能動」ではあり得ないし、

逆に、外部からの影響を受けている行為(たとえば、提案された分野のことを提案された方法で勉強する)だとしても、
そこに本人の本質(たとえば、その生徒にはその分野・やり方が適している)が表現されているのであれば、
その学びは「能動」たりうる。

そして、大切なのは、完全な能動はあり得ないのであり、
私たちは少なからず外部からの影響を受けて生きていることを認め、
学びにおいて「完全な能動」を目指すべきではないことを認識することではないかな、と思う。

03. 能動的に巻き込まれる

話は変わって、これまでの私の生活を振り返ってみようと思う。

私は今、東京大学を休学して
「発信しながら地域に飛び込む東大生」をキャッチコピーに、
さまざまな地域に飛び込み、
自分がどう生きるか? 何を生業としていくか? 地域にどのように関わるか?
をひたすらに考え、体験と思考を繰り返している。
そして、その体験を文章にまとめている。


こうして「地域に飛び込む」ということ
(地域に飛び込むとはなんぞや、ということについても色々と考えているけれど、今回の内容にはあまり関係がないので、そのあたりの話は割愛する)
をし始めたのは、2021年の3月ごろからだろうか。

あれから一年ちょっと。
だいぶ、私の人生は思わぬ方向に、カオスな方向に、そして激しい方向に進んでいっている気がする(笑)。

そんな中で、私がずっと使ってきている言葉がある。

能動的に、巻き込まれに行っています。

これは一見、矛盾するような表現だ。
「巻き込まれる」というのは一般的に「受動的」なことであり、
それが「能動的」という言葉と共存することはできない。

だから、「あれ??」と思うような表現で、人に興味を持ってもらえる上に
でも、本当にこうだよなあと思っていたからこそ、
自己紹介などで、よくこの表現を使っていた。

前編を読んでくださった方にとっては相当にくどい話だが、
「能動と受動」の対立への疑問、これがこの本の中では一貫している。

そして、
「能動的に巻き込まれる」とはまさに「中動態の世界」で解釈されるべき表現なのではないだろうか。
逆にいうと、
「中動態の世界」の枠組みで、この表現は成立可能であるからこそ、
私はこの表現の「矛盾」を知りつつも使いつづけられたのである。

ありがたいことに、
私の周りには本当に素敵な、そしてアクティブな面白い方達が多い。
そして、彼らと一緒に何かしたり、対話したり、それを文章にする中で、
彼らの価値観・思考・哲学のようなものから
私は大いに影響を受けている。

ただ、それでも私はそれに100%影響を受けたり、100%受け入れたりして、
誰かと全く同じような思考で、同じ行為をしているということはない。

そんな考えもあるのか、
これは素敵な考えだ、
これは面白い見方だ、でもそうでない人もいるだろう、
これは少し納得できないけれど、そういう人もいるらしい、

なんてことを考えながら、
それに少なからず影響を受けて、私の価値観は常に変化を続けていると思う。

それを分かった上で、
それでも私は自ら、たくさんの価値観に触れようと飛び込む。
そして、それを文章に起こす。
能動的に巻き込まれる。

この生活がとても楽しくて、幸せを感じることができるのだ。

おそらく、この生活には私の「本質」がきちんと表現されている。
だから、私は「自由」に生きられるのであり、
そこに幸せを見出せる。

「中動態の世界」に触れ、
このような自分の思いをとても素直に納得することができて、
こういった瞬間に、私はこの本の面白さを最大限に味わっていたのだと思う。

04. 『いっぽ。』ここに「意志」はない

地域に飛び込みながら、そこでの体験を文章にしている作品。
私は、この作品を『いっぽ。』と名付けている。



実はこのタイトル、個人的には思い入れの強い言葉だ。

嬉しいときも、楽しいときも、幸せなときも、
悲しいときも、辛いときも、苦しいときも、
いっぽずつ進むしかないのだから。
そのいっぽに全力を尽くそう。

『いっぽ。』内のエッセイ「あとがきの、あとに。」より

地域に飛び込んで、行動力あるね!
本書くなんてすごいね!
休学って思い切ったことするね!

こうやって言っていただく機会は、本当に多い。

こうして応援してくれたり、面白がってくれたりする人が
たくさんいるということは、とてもありがたいことだけれど、
私には、あまり「大きなことをしている」という感覚はない。

見たい未来があって、
自分がそこから少し遠いところにいるから、
ただ一歩ずつ、進んできただけ。

前に進むときもあるけれど、
後ろにだって進むし、右にも左にも行ってしまうし、
ときには迷子になるときだってある。

けれど、そのときの自分の思いと、
周りの人や環境との出会いのタイミング・ご縁、
そういったものを大切にしながら、
ただひたすらに、一歩ずつ進んでいるだけ。


そしてこの一歩に、おそらく「意志」などない。

アレントの定義によれば、「意志」とは「絶対的な始まり」であった。
そして、その厳密な定義ゆえに、アレント自身によって「意志」は否定されてしまう。

この部分を読んだとき、まさに『いっぽ。』のことが述べられている、
と感じて震えるくらいに面白さを覚えた。

そう、『いっぽ。』に意志などないのである。

まだまだ、文章も上手くないし、知名度も限りなく0に近いし、
これからどうやってこの『いっぽ。』を活用していこうか
と悩むときも多い。

けれど、それは決まって
「『いっぽ。』を使って私は何をしたいのか?」
と私の「意志」を問うてしまっているときではないかと感じたのだ。

そもそも、この『いっぽ。』に私の意志などない。
その時の外部からの刺激に影響を受けながら、
自分が楽しいと思えることを表現したにすぎないのであって、

ここに私の明確な「やりたいこと」があるわけでもなければ、
「責任」が問われることもない。

そう考えると、とても心が軽やかになる。

自分が出会ってきた素敵な方達のことを、彼らの価値観を、
素敵な場所のことを、
たくさんの人に知ってほしい。

出会えたご縁、可愛がってもらった感謝の気持ちの表れとして、
自分で作った作品をプレゼントしたい。

こんな、どこからともなく湧き上がってきた感情を表現するものとして
『いっぽ。』はある。

少しだけ、目の前の視界がクリアになったような気がした。




05. 中動態の世界を生きる

私たちは中動態の世界を生きている、
そう捉えることで、今まで説明のつかなかった現象や感情が説明できるようになったり、
「自由」に近づくための小さな希望を手に入れることができたりする。

これは、間違いのない事実なのではないかと、
今の私には思える。

きっと、「中動態の世界」の中だけで
私たちが生きているということはないだろうし、
まだまだ「中動態の世界」に対する理解や考えは圧倒的に足りないだろう。

だから、これからも行動と思考を繰り返しつづけていきたい、
そう思わずにはいられない読書体験だった。




前編はこちら


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