【書籍】芸術と科学のあいだ
生物学者である著者がさまざまな作品を挙げ、芸術と科学のあいだ、その存在論や科学の発展で表出した芸術、といった深掘りな内容を期待していたのだが...。
冒頭に述べている内容で、全てが集約される。
芸術と科学のあいだに共通して存在するもの。それは今も全く変わっていないこの世界の繊細さとその均衡の妙に驚くこと、そしてそこに美しさを感じるセンスである。
科学、といっても大半が著者の専攻分野である生物学的な視点をもとに寄稿したエッセイの寄せ集め、といった印象が拭えなかった。
本書において、著者のいう芸術とは芸術作品のことであり、著者が芸術作品をみた(触れた)うえで感じた、科学(主に生物学)との関係性を述べているものである。あえて均衡という言葉を選んでいるのは、著者の別冊に帰結される。
著者のいう動的平衡とは、「粒(タンパク質や脂質など)がたえまなく流れながらも、私は私であるという同一性を保つ仕組み、つまり変わりつつ不変を保つ」というものである。ただし、「動的平衡」については、物理・化学的な意味合いとは根本的に異なるため、用語そのものに対していささか納得はできない。
本書では著者が愛してやまないフェルメールの作品を取り上げているページが多い。フェルメールの作品を見るためなら世界のどこへでも、巡礼と呼ぶほどフェルメール愛が強い。
そのなかにおいて、生物学的な視点から杉本博司の『ジオラマ』シリーズについての寄稿は目を引いた。
写真は動的世界を静止することに成功した。(中略)。写真とは時間の関数として流れる動的な世界を微分する作用であり、それゆえ一枚の写真には、そこに至る時間とそこから始まる時間が内包されている。だからこそジオラマの中に不自然なかたちで止められていた時間が、杉本の写真によって、再び動き出す契機を与えられることになったのだ。
「写真とは時間の関数として流れる動的な世界を微分する作用」。このあたりの表現は理系的でなるほど、と感心させられた。写真を時間で積分、すなわち写真集などの形態すれば、動的な世界をあらわす、、いや、写真家やアーティストが作り出す疑似的世界となるのかもしれない。
一方で、杉本のステートメントは以下の通りである。
1974年、ニューヨークに着いたばかりの私は、ニューヨーク見学を始めた。自然史博物館にたどり着いた時、私はひとつの奇妙な発見をした。剥製の動物たちが書き割りの前に置かれて、いかにも作り物に見える、しかしそれを片目を閉じて見た瞬間、遠近感が消失して急に本物のように見えたのだ。わたしは、カメラのように世界を眺める方法を発見した。どんな虚像でも、一度写真に撮ってしまえば、実像になるのだ。
引用:Hiroshi Sugimoto Webpage : https://www.sugimotohiroshi.com/
写真は真実を写すと思い込まれている概念そのものを問う杉本に対して、動的平衡の時間的視点からみた写真の論考。写真は撮った瞬間から過去となり、プリントすることによって現代のものとなる、という写真的時間の視点ではなく、展示されている剥製の視点からみることで、すでに止まっている(死んでいる)時間が、写真に撮られることによって新たな命を宿した。どこに視点を置くかによってものごとの違った側面が見えてくる。
とはいえ、そもそも論であるが、どうも生物学的な解釈は釈然としないことが多い。生物化学や医学といった、化学的な内容であれば仮説→検証(実験)という科学的な展開であるため、個人的にはまだ理解しやすくはある(現代における進化論は化学的要素が強い)。
しかしながら、かつての進化論のように長い年月をかけて生物は進化してきた、といわれたところで、では今この瞬間に進化したものがどうしてみれないのだ、とものすごくモヤモヤする。おそらく、数学や物理のように解くことよりも、圧倒的に用語の暗記量に依存する部分が大きいと感じているからではなかろうか。
芸術と科学のあいだに存在するもの、それは著者の思い入れと研究関連(生物学)との相互作用である。
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