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【考察】アート作品における権利ー著作権・肖像権

一般的に写真の著作権は撮影者に帰属され、写真は著作物であると認められている(著作権法第10条8項)。ちなみに死後70年間が有効。

一方で、被写体には肖像権(プライバシー権:憲法13条)があり、たとえ部分的(顔の一部など)な場合であったとしても、人物を特定できると判断される場合には、肖像権の侵害が認められる。

なお、書籍などの出版物において、ほかの著作物を引用することが認められており(著作権法第32条)、このとき引用元は明確にする必要がある。

たとえば2015年4月、アメリカのアーティストであるリチャード・プリンスは、『New Portraits』展を催した。彼はInstagramにアップされた画像を作品として使用し、のちに作品が約1000万円で落札されたというものであった。

記事にもあるように、当作はInstagramの画像をキャンバスに写し、プリンスがコメント欄に手を加えたものである。

Instagramの利用規約には以下の通りとなっている。
https://help.instagram.com/478745558852511

利用者がサービス上で、またはサービスを通じて投稿するいかなる利用者のコンテンツについても、その所有権を主張しません。

所有権は投稿者に帰属している。ただし、使用できる場合もある。

利用者は、適用法により認められている著作権および関連する権利の例外事項または制約事項に基づき、他者の制作物を使用できる場合があります。


アート表現のひとつに「アプロプリエーション」と呼ばれるものがある。

アプロプリエーションは「流用」や「盗用」と訳されるように、他者の作品を自身の作品のなかに取り込んで用いる手法である。

インターネットが日常のインフラとして機能している現在において、データのオリジナル性、およびコピーの容易さなど、かつてのコラージュ的手法がより簡便かつ権利の所在が曖昧となっている点は否定できない。

プリンスの場合もInstagramの規約に則り、「画像の転用は著作権侵害には当たらない」点をついた方法ではあるが、否定的な意見が絶えなかった。

その多くが感情論、および倫理的なものであった。法的には問題なくてもやり方は間違っている、といった具合に。

確かに自身がInstagramにポストした画像を勝手に使用され作品として主張され、さらには1000万円もの価格で落札されたとなれば誰でもいい気はしない。

しかし、法的に認められていた以上、画像を利用することに問題はないし、自身の作品を販売することもなんら問題はない。仮に利用されたのが「自身」の画像=当事者でない場合、はたして同様の「感情」が生まれるであろうか。

法律もまた権利などを保護するために人間が決めたことである。どちらの主張が優位か判決を下すのもまた人間によるものだ。Instagramというサービスを利用した段階で、規約に同意したことになるため、勝手に利用されたと主張したところで、規約を理解していない(もっとも、大半は読んでいないに等しいであろうが)と一蹴される。

作品において守られるべきは著作権などの権利であって、侵害されたくなければ事前に相応の権利を有しておくしか、なす術はない。良い悪い、正しい間違っている、といった感情的な判断が加わることで、ものごとの本質が見えづらくなってしまっているのだ。

では、キャラクターの場合はどうなのであろうか。たとえば、村上隆の『ドラえもん』。

ドラえもんといえば、藤子・F・不二雄が描いたキャラクターであるが、キャラクターそのものには「著作権」は存在しない。

上記記事にもあるとおり、権利を守るためには「商標登録」によって保護するしか、キャラクターを守る手立てはない。

そのため、村上氏によるドラえもんもまた、村上隆の作品であると判断されることになる(おそらく、村上氏のことだからあらかじめなんらかの同意を得たうえで、用いているであろうが)。

この作品をみて、そこに描かれているものが「ドラえもん」だと認識するのは、われわれがそれを「ドラえもん」という藤子氏の漫画のキャラクターであると知っているからにほかならない。

もし、ドラえもんというキャラクターの存在を知らずにこの作品を観た場合、それは「村上隆が『ドラえもん』というキャラクターを描いた作品」としてその人には認知されるであろう。

つまるところ作品は、鑑賞者の知識によって判断がなされることになる。極論をいえば、「知っている」か「知らない」かのどちらかとなる。

ここからさらに、「分かる」「分からない」、「好き」「嫌い」といった鑑賞によって生じる感情的な作用がもたらされる。

一般的にこれらは一括りで話しが進んでいくが、本来は別の次元で語られるべき内容であると、私は思っている。

根本的に「知る」ことと「分かる」こととでは、その役割が大きく異なっている。

(データ)情報の観点からすれば、「知る」ことは情報を「保持している」ことで、「分かる」ことは「保持した情報を活用できる」という見方もできるのではなかろうか。

保持しているデータと観た情報とが整合すれば、それが何であるか「分かる」ことになり、たとえ整合しなかったとしても類似したデータを組み合わせることで「分かる」ことができる。そのとき得られた情報が新たな判断基準の元となるデータとして、記憶に刻み込まれる。

「分からない」のは整合(類似)するデータが欠損しているためであり、ゼロからは想起しようもない。それでもなお「分かろうとする」のは、整合性が乏しいデータからどうにかこうにか共通点を見出そうとする、人間の人間たる尊厳ではなかろうか。

法律は人間が制定したものであって、すべてにおいて完璧なものであるとはいえない。そしてまた、万人が決められた法を順守するという信頼によって成り立っており、現代に即さなければその都度アップデートされて然るべきであると思う。

アートであれば何をしても構わない、という訳ではない。法令は順守すべきであるし、アート界に蔓延る暗黙のルールは守らなければならない。感情論ではなく、決められたルールに則って制作されたからこそ、プリンスの作品は1000万円と同等の資産価値があると価値付けがなされたのだ。

そうして決められたルールというテーブルのうえで、なにができるのか、が試されている。

ただし、ルールを守っているからといって、他者を恣意的に不快にさせるものや陥れるものを制作すべきではない、と感情論的に私は思っている。

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