【図録】「snap+share」

現代アートや芸術と科学・次元もいいのだが、もっぱら写真から遠い位置の書籍を読んでいることに、いまさらながらにふと我に返る。そういや、写真の勉強、していないぞ、、と。

課題も兼ねて、現代における写真のことを深掘りしておこうと、かつて買ったきりほとんど読んでいなかった本書を開くことにした。英語なので、読むのに時間がかかるなーと、放置していました、はい。

2019年3月30日~8月4日、サンフランシスコ現代美術館において、シニア・キュレータであるクレマン・シェルー(1970~)が企画した「snap+share」展が開催された。本書は同展の図録である。

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デジタル写真が主流となった現代において、「写真」の意味合いはかつてのアナログ(銀塩)写真の時代とは大きく様変わりしている。特に象徴的であるのが、Facebook(2004年)やInstagram(2010年)に代表されるようなSNSの台頭であり、2018年の時点ではFacebook上に1日当たり3億枚、Instagramには9500万枚以上の写真がアップロードされている。

同展では、現代写真を読み解くため、写真の文脈を整理することを目的としている。とりわけ、写真における即時性の観点から、ダゲレオタイプやメールアート(Mail Art)を原点に置き、Kodak社によるパトローネフィルム(スナップ写真)、Polaroid社によるイメージトランスファー(ポラロイド写真)を経て、Instagramに象徴されるSNSでのシェアへとつながっていると分析している。

現代の写真は第3ステージに移行したとされ、それまでは写真集や展示が主流であったのに対して、現在では撮影と印刷のみに限定されてはいない。これは、現代における写真の存在価値が生産性と宣伝によって定義付けられており、同展のタイトルでもある「snap+share」であるとみなしている。

これは、現代の写真がデジタル化によって革命的に進化したということが前提条件としてある。写真の物質的な重さ、すなわちガラス乾板やパトローネフィルムのように、かつて写真を撮影するためには物質的な制約条件が科されていた。

一方で、デジタル化、とりわけスマートフォンやモバイル端末にカメラ機能が搭載されたことによって、物質的な制約から解放されたとともに、インターネットの一般普及によって即時的な写真の流通が可能となった。

これは、写真が一般的な対話性、すなわちSNSなどを利用し、写真による「会話」としての役割を獲得したことになる。このことから、これまでアートとメディアとして位置付けられていた写真は、共通言語としての地位を確立したことといえる。

加えて、デジタル技術(デジタル写真)は、正確な位置情報を有しているため、かつてどこにいた=どこで撮影されたのかが一目瞭然となる。写真の持ちうる「いま、ここに」という時間と場所をも明るみになるのだ。これによって、あたかも現地に行ったかのような仮想体験がオンライン上で共有されることになる。

また「インスタ映え」に象徴されるように、写真写りが良い現地におもむき、似たような写真が量産されるようになる。Corinne Vionnetはそうした写真を集め、テンプレート化されたイメージを表現するために、写真をレイヤーで重ねることによって表現している。

偉大なメディア研究者であるマーシャル・マクルーハンによれば、今日ソーシャル・メディアで共有されたイメージは自己のエゴを表現したものとみなすことができる。とりわけ、自撮りは見る者の関心、承認、認識を求めるものであり、社会コミュニティの一員として、自身の立ち位置を明確化するためのものであるといえる。

自撮り写真を共有することによって、「私を見て!」というだけではなく、「私はここよ」「これが私なの」ということをも暗喩することになる。つまりこれは自己表現にほかならない。

2000人を対象としたイギリスの研究によれば、1日のうち平均で221分もの時間をスマートフォンの使用に費やしているそうだ。これは、悲惨なことに配偶者やパートナーと触れ合っていた時間がスマートフォンによって奪われてしまったことに等しい。(Kate Hollenbachによる≪phonelovesyoutoo≫の作品で示している)

本図録の表紙写真は2003年頃にインターネット上で流行った写真であり、“celling cat watching you”:天井の猫はあなたをみている、とキャプションがついている。ペットとしても身近な存在であるネコは、インターネット上でマスコット的な扱いとなった。子猫の可愛らしさとはうらはらに、いつもどこかで見られている=監視社会を連想させるものなのである。

かつてベンヤミンが写真のオリジナリティ、および写真によるアウラの消失について言及していたことを引き合いに出し、今日におけるデジタル画像のアウラは本質的に写真をシェアすることとともにあるとみなしている。

以上のことから、現代社会における写真の問題点として、自己中心的な傾向、誰かと繋がりたい欲望、繋がりを感じるためにシェアを必要とする、という点を挙げている。

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現代において、シェアする、リアクションすることは日常会話のように用いられ、写真を撮る行為さえも特別なことではなくなってしまった。

しかしながら、現代におけるアート写真のトップはグルスキーのように、美術的(絵画的)な文脈の延長線上に存在している。デジタル技術を用いた、絵画的表現、とでもいえるのであろうか。

また、現代の日本における写真表現は、写真を加工する(いろんな意味で)傾向が強いように感じられる。おそらく、2008年の写真新世紀あたりが分岐点ではなかろうか。

単なる加工や後付けの問いではなく、問いのための方法としての加工であればいいのだが、その違いは極めて不明瞭になっているように感じられる。

誰しもが行なっている表現には興味がないので、粛々とこれまでの写真の概念をも超越する作品に仕上げていきたい。

なお、オリジナリティあふれる意訳であるとは思うので、正確な内容は本書をご覧ください。

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