執着と憧憬、あるいは不確定な現在の風景へ

1. 間-東京へのイントロダクション
東京の話をする。俺はまず、東京について話す必要がある。
俺はいつも、見えない人の足取りの上を歩いている。沢山の人に歩かれた路上を、誰が歩いたのかを知らないまま私は歩き、そして俺のその足取りも、誰に知られることもなく、見えない未来として、また誰かに歩かれる。それが繰り返されていく。
空間と時間には、「間」という同じ言葉が使われている。東京は、「間」の町である。記録/記憶されることのない空間が、時間が、空と時の間で混ざり合い、渦を巻いている。

2. 見えない誰かの足取り
私が暮らしている場所には、かつて誰かが住んでいて、私はその人のことを知ることはない。そういうことを、初めて一人暮らしを始めた江古田の6畳のアパートで考えていたことがあった。スーパーの惣菜のシールが、台所の扉の裏に貼られていて、それは2004年のものだった。
江古田には友人が住んでいるので、今でも遊びに行くことがある。そしてそのときには、そのアパートの前を通ってみる。私がスターウォーズのフィギュアのブリスターパックを置いていた出窓には、スケートボードが置かれている。私は、その板の持ち主を知らない。その板の持ち主は、私のスターウォーズのフィギュアを知らない。
ストリートビューで、私が住んでいた頃のそのアパートを見てみる。ブラインドが下されていて、スターウォーズのフィギュアは見えない。
「起きろよ、太陽でてるぜ」と、2019年の俺はパソコンの画面越しに、2011年の俺に向かって話しかける。その声はもちろん、届かない。届かないことを知りながら、俺は声をかける。起きろ。

3. 10歳の記憶
2000年ごろ、伯母は、代官山の秀和レジデンスの一階に住んでいた。彼女は、サン=テグジュペリと、サンスクリット語が好きだった。東京に遊びに行くたびに、彼女の部屋にある緑色のiMacでインターネットをするのが好きだった。
ある朝、母親と伯母と、サブウェイに朝食を買いに行った。ビーチサンダルに青いデニム、リネンのシャツを羽織った男性が、新聞を読んでいた。
俺たちはサンドイッチを買って、日当たりの悪いダイニングキッチンでそれを食べた。
新聞を読んでいた男性が誰なのかを俺は知らない。

伯母は2004年に癌で亡くなった。俺たち家族で伯母の部屋の片付けをしている時に、母の慟哭が聞こえてきて、俺と父と妹は部屋の外に出て、それを聞いていた。それきり、その部屋には入っていない。これからもきっと入らないのだろう。
今はその部屋には、私の知らない誰かが住んでいる。

大学院生の時に、戯れに伯母の名前を検索窓に打ち込んでみたら、ひとつのページに行き当たった。当時の仲間内でやっていたと思われる掲示板だった。
伯母の営んでいた鍼灸院の名前のハンドルネームで、彼女は新年の挨拶を書き込んでいた。

代官山に行くと、いや、東京にいると、彼女の歩いた道を俺は歩いている、と、ふと思う時がある。彼女は東京で、どのような時間を過ごしていたのか。彼女は誰と仲が良くて、誰と笑い、誰と泣き、毎日を過ごしていたのだろうか。
時間と空間が混ざり合う。2019年と、2000年が、空間の中で、溶けあっていく。

4. 場所へ
私は場所に執着している。場所というものに執着している。あるいは、場所へ執着することに執着している。そこに欲望はない。すべからく、私は、場所に生きざるを得ないのだ。場所は「間」に発生する現象である。

フッサールの現象学を地理学に持ち込んだエドワード・レルフは、「場所」についてこのように述べている。

共通に知られていなくてもよく、むしろそれは私たちにとっての特別の意義によって決まるものであるし、現在のものというより思い起こされるものであるかもしれない。とくに子供のころの場所は、多くの人々にとって生き生きしたよりどころとなっている、その場面それ自体は経験の一部には含まれなくても、そうしたよりどころは特定の個人的経験を思い出すのに役立つ特別の地点や状況になりうる。(…)その場所自体がある「最高の経験」の源泉であるような個人的場所というものもあるだろう、すなわち、ある場所との出会いから生まれ出る純粋な個性とアイデンティティの感動的な経験についてである。(「場所の現象学」エドワード=レルフ p99)

私にとっての「共通に知られていなくても良い、個人的な場所」とは、江古田であり、代官山であり、「見えない誰かが歩いたかもしれない」東京である。そして今私がいる場所も、私を通過して存在している限り、個人的なものにしかなり得ない。
私は私である限り、私の場所しか経験することができない。そして、私にとっての個人的な場所のひとつして、東京というものがある。
繰り返しになるが、私は東京を欲望していない。東京に執着をしているわけではない。私は、「間」を通過して、場所へ、場所という現象へ、存在を投影したいという欲望に囚われている。

つまり私は、私として存在していたいだけなのだ。それが、とても難しい。

故郷の話は次回に書く。

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