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たった10分で死生観が変わった話

10分遺書。

10分で遺書を書く。これ以上にないほどシンプルで、これ以上ないほど深い。


僕がこの10分遺書「LastWords」のプロジェクトに出会ったのは、大学の授業。早稲田大学の准教授を務める、ドミニク・チェン先生の講義で紹介された。他でもなくその作品は、チェン先生自身のプロジェクト。あいちトリエンナーレ2019に出展され、話題を集めたものだ。


ルールは簡単。執筆のプロセスを記録・再現するTypeTraceというソフトを用い、執筆者が愛する人へ10分間で遺書を書く。時間をかけた文字ほど大きく表示されるようになっている。


最初に、この作品を見た時、僕は咄嗟に拒否した。誰も見ないとわかっていても、愛情を口に出すのはこっ恥ずかしかったし、何より、自らの死について考えることは脳が嫌がった。

だから、授業では「テクノロジーの観点で~」とか「TypeTraceというソフトは~」とか、当たり障りのない話題でやり過ごした。


それから数か月経って、この作品が「Arts Electronica 2020 TOKYO GARDENオンライン展示会」に出展されることがわかった。そして、奇妙なことに僕は「やってみたい。」と思った。


その時は、とんだ気分屋だとしか思わなかった。


特別サイトに飛ぶと、自分のニックネームと、遺書を残す相手のニックネームを入れる場所がある。そこで僕はしばらく悩んだ。

家族に書くべき? でも父親に母親、兄貴の中から一人選ぶのも違和感あるし。

友達? だとして、誰?一番仲良い友達を選ぶべきだろうけど、アイツはこういう居心地の悪いものはジョークで誤魔化すタイプだし。

彼女? 付き合って一年かそこらの彼女に、「これから死にます。」って書くの荷が重すぎない?(笑)


とか、いろいろ考えた末、我が家の愛犬、しおん君に書くことにした。もはや人ではなくなってしまったけど、まあいっか。スタート。


するといきなり、時計の針が進み始めてしまった。何か書かなきゃと思って、恥ずかしさを紛らわすかのように、「こんなのを書くのは変だよねー」と見栄を張った。

続けて、初めて出会った時から今に至るまでを書いた。迎え入れた当時を振りかえり始めると、涙を抑えるのに必死になってしまった。まだまだ序盤だし、しおんはまだ0歳なのに(笑)


どうにかそれを書き終えると、次に自分のことについて考え始めた。

すると、そこで気づく。僕は無意識に、彼よりも先に死ぬことはないと思っていた。でも今の僕は、死にゆく生命。命に重さがあるなら、僕よりもしおんの方がきっと重い。「人」と「犬」というカテゴリーは消失し、今そこには「逝く者」と「残る者」だけであると気づく。


その後は、感謝の気持ちを綴った。しおんが家に来て、空気が明るくなったこと。とにかく幸福をもたらしてくれたことに、心の底から感謝の情が湧いてきた。


そして、心配した。もう毛づくろいをしてあげられないから、毛玉出来ないかなとか、散歩嫌いでもちゃんと運動してくれるかなとか。些細なことだけど、自分が他者のために生きたということを確認していたのかもしれない。


最後に、これからの幸せを願った。僕以外の人ともこれまでと変わらず吞気に暮らして欲しいと。自分のいない世界を静かに受け入れようとした。


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10分間を終えてわかったことは、僕はずっと死について勘違いしていたということだ。


僕は死にゆく瞬間に、人生において「後悔」を残すのが何よりも怖かった。

あれをやり残した。

あの人に会いたかった。

あの時、ああしておけば良かった。


でもこんな自己本位的な発想は、相手を想う時、自然と何処かに消えてしまう。


死にゆく瞬間に出てくるのは、当人との「記憶」「感謝」「承認」「願望」だけであった。

つまりは、死はもっと他人指向のポジティブさを持ち合わせていた。それは幸せ日記を書くような感覚で、思い出をトレースしたり、普段はしない感謝の情をすくい上げてみたり、自らの価値を評価してみたり、明日以降も回る世界に願掛けをするようなことである。



「LastWords」の作者ドミニク・チェン先生は、「COVID-19の状況のなかで、世界中の人々の死生観がどのように変化したのかを見つめます。」とコメントしている。


僕が突然、このプロジェクトに参加したのは、そういう理由かもしれない。

幸い、身内や親族、友人の間でコロナウイルスに感染した人はいないが、僕はいつも死を意識していた。僕は以前から、死を「自身の恐怖」と捉えていたが、コロナ禍においては、死は潜在的に「他者の恐怖」さえ帯びるようになった。それは、突然自分が他者の前から消える恐怖である。猶予はない。


そんな折に出会ったこのプロジェクトで、僕は「自身の恐怖」や「他者の恐怖」を、愛するヒト(イヌ)へ遺書を書くことで、別にモノに塗り替えようとしたのだ。僕の場合それは「他人指向のポジティブさ」に上塗りされた。



死は怖い。でも、死の直前に横たわる生にしがみつく時、皮肉なことに我々はより前を向く。これは人が最後に与えられた試練だろうか。褒美だろか。


奇妙なことに、死について全く正確に知っているものなど、この地球上のどこにもいない。だからそれはぐにゃぐにゃ曲げて、どこにでも当てはめて良いのだ。


少なくとも、「死」そのものについて、よりオープンな議論を可能にした「LastWords」が存在する限り、我々は死生観を更新し続けられるし、都合の良い解釈を作り出せば良いのである。


きっと、それが僕の死生観の転換である。


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「LastWords」気になる方は是非、試してみてください。



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1998年生まれ。早稲田大学社会学専攻。小さい頃から「お勉強」が得意な子として育ってきたが、受動的な学習に疑問を感じ、近年は創造的な活動に身を投じている。アートライティング・イラストレーション・ファッションスタイリング・フォトグラフィー・映像制作を行う。