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海外に長く暮らすということ

一体どれほどの人が、海外に長く暮らしたことがあるだろうか?

旅行や短期の滞在はあっても、家を借りて、近所のスーパーで買い物して、近くのカフェで店員と顔なじみになる人は、そんなにいないと思う。

でも実は、海外に長く暮らさないとわからない感覚がある。

21歳の半分を過ごしたベルリンの小噺。


冴えない留学と小さな豊かさ

僕は、2019年の9月ドイツのベルリンに飛んだ。大学生活の中でも一大イベントだった。大学入学早々英語の試験を受けまくり、志望動機書を何度も書き直して、やっと手に入れた留学だった。

ドイツでは、学生はシェアハウスに暮らすのが普通。僕は、大学から近くのミッテ地区にあるアパートを借りた。正面ドア抜けると、ルネサンス調の天井画が出迎えてくれる、そんな美術館みたいな家だった。

近くには芝生の公園があり(というかベルリンには街中あちこちに公園がある)、大きなガラス窓から丸い光が差し込んじゃうようなコジーなカフェも沢山あった。


でも、決して僕の学生生活は、窓際の席で読書をするような安堵感を持ち合わせてはいなかった。言うなれば、いつも不快な気持ちがしていたのかもしれない。

興味をそそるような授業が少なかったし(これは事前に調べてこなかった僕が100%悪い)、ドイツの大学には自動で友達が出来ちゃうような、日本のサークルみたいなものもなかった。だから、大学を休むことも、時々あった。

薄暗い照明器具の下、一人でNetflixを見て過ごす冬はさぞかし寒かった。Netflix and chill なんてもんじゃない。Netflix and freeze だ。


とは言いつつ、たまに数少ない友人と、ビールを交わすことがあった。僕らは決まって、バーで数杯ウィートビールを飲んだ後、寒空の公園でまた安酒ビールを飲んだ。これ以上ないくらい、体が冷え込むと、小さな温かいハグをして解散した。Beer and warm 。これがかろうじて僕の小さな豊かさだった。


パンデミック

ご多分に漏れず、僕もあの憎いウイルスに人生を狂わされた一人だった。

2~3月にかけてイタリアを発端にヨーロッパ全土に広がったそれは、ドイツにも魔の手を伸ばし、3月末にはドイツ全土がロックダウン。街はゴーストタウン化し、人々は互いに忌み嫌うような鋭い空気感を出していた。春の訪れを祝うはずのベルリンは、時間を巻き戻したように凍てついていた。

アジア人差別にも直面した。薬局で悪意のあるくらい執拗に手の消毒をされたり、深夜の若者に「コロナ!」と罵られたりした。人間の嫌な部分を無理やり見せられ、僕はまるで、ルドヴィコ療法の犠牲にされたオレンジみたいな気分だった。


当時友人を訪ねて、ロンドンに数日滞在していた僕は、航空会社の手違いで、ドイツ行きの便に搭乗拒否され、棚から牡丹餅、日本行きの航空券を手に入れた。


唐突に留学生活は終わりを告げた。


あの公園の芝生に寝転がることも、週末にスーパーで大量のハリボーを買うことも、友人とささやかなProst(乾杯)をすることも、突然なくなった。

「ちくしょう。ついこないだ博物館の1年間パス買ったのに。」もっと心配することがあるだろうに、こういう時に限って小さなことが妙に悔しい。


予期せぬ帰国

3月の末、僕はそのまま、ベルリンのアパートに全てを置いたまま、日本に帰国した。

5月から大学のオンライン授業が始まった。しょうもない授業を2倍速で聞き流しながら、僕はいつも「次はいつベルリンに帰れるだろうか」と悩んでいた。


そう。日本に戻ってから、なぜか僕はベルリンに「帰る」と言っていた。

無味な授業に、刺すような寒さ、差別。あれだけ興ざめしていた土地に、執着している自分に驚いた。少し嫌な気持ちさえした。

だから、僕は「荷物を取りに『帰る』だけで、ベルリンに『帰る』わけではない」と思うようにした。あんな土地に帰ってたまるか、みたいな子供じみた反抗心だった。


7月、ヨーロッパの情勢が落ち着き、日本の経済が復活し始めた時、航空券を買った。羽田発ベルリン行き。


あの公園で

落ち着かない気持ちで期末試験を潜り抜け、迎えた8月。空っぽのバッグを担いで、ドイツになんとか入国した。


4か月ぶりに帰った家は、あの時と何も変わっていなかった。いや、むしろ変わっていたら、強盗を疑う。


荷物を片付け始めたとき、ふと部屋の隅でカラカラに枯れたズッキーニを見つけた。それは得も言われぬほど悲壮的だった。

こんなしおしおになってしまったズッキーニのために、何かしてやらなくてはと思った。このズッキーニは弔いを必要としている、と直感的に思った。


だから、僕はあの、ビールを飲み明かした友人たちに連絡することにした。

誰にも会わないつもりでベルリンに来たけど、ズッキーニの孤独さを思うと、せもて僕だけでも人と繋がらなくては、と思った。ズッキーニ、お前の死は無駄じゃない!


「いろいろあっていまベルリンにいるんだけど、あの公園でまたビール飲まない?」と、テキストを飛ばすと、案外すぐに返ってきた。

「あたぼうよ。」


次の日、ごく普通に、全くあの頃と変わらぬ場所で、彼らと瓶の王冠を外した。

8月のベルリンは湿気がなく、心地よかった。仰向けに寝そべってみる。雲の流れを追ってみる。不思議な感覚がした。恐らくこれは、ちょっとの人間しか感じられないものなのかもしれないと思った。


つまりは、この土地は「知っているけど、知らない街」だし「帰る街だけど、帰らない街」だった。隣にいる人も、この場所も、ベルリンのものだけど、僕のものでもあった。

マップを見なくても、駅から家までまっすぐ帰れる。スーパーでは、どこに何が置いてあるかすぐわかる。日本とは違う交通ルールを意識しないでも守る。旅行や短期の滞在なら、何をするのもアブノーマルだけど、もはや僕には全てがスタンダードだった。

地方に実家がある人が上京して何年か経って感じるものと似ているけど、根本的に違う。文化的コンテキストを共有していない土地を、自らのスタンダードだと捉える経験は、日本国内で出来るものではない。


この感覚の正体は多分、「アイデンティティの外輪が物理的に広がること」なのだろう。

知識や経験を得ることの根源であり、さらにその先。スタンダードの増加と多角化。留学という事変が、自身の血肉となった瞬間だった。


*

そういえばこの前日、インスタグラムに、馴染みの公園やストリートのスナップと共に、「ここが私のアナザースカイ」というキャプションをつけて投稿した。あの時はふざけて書いていたけど、あながち言い得て妙だ。

ベルリンの天は「異」というより、アイデンティティという巨大な天に存在する「別」だった。


そんな思想旅行を繰り広げている間に、友人の一人が次のビールを手渡してきた。

やあやあ、久しぶりに言おうではないか。

Prost!



Photo by Pablo Hermoso on Unsplash

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