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殺人事件を考えるということ


  あるウェブ記事を読んだのでここに考えたことをまとめておきたい。

 そのウェブ記事についてリンクをはるのは控えよう。別に至って普通の、7月26日に三年目を迎える相模原連続殺傷事件と、オウム真理教による事件、そして今回の京都アニメーションを襲った事件について、殺人をキーワードに書いたものだからだ。特に感想はない。こうした記事やつぶやきは、他にもたくさん散見される。

 ただどうしても拭えない違和感がある。わたしは1995年以降、オウム真理教による地下鉄サリン事件に、なかばとりつかれる形で研究を重ねてきた。博士論文も、地下鉄サリン事件に向かった林郁夫について書いたものである。そのわたしが危惧するのは、殺人事件を混ぜて語ることの危うさである。

 95年以降、一見すると「理由なき殺傷事件」があると、必ず引き合いに出されるのはオウム真理教である。例えば秋葉原連続殺傷事件、先述した相模原連続殺傷事件も同様だ。加害者と被害者に、直接の関係がなければ、われわれはそれを「理由なき殺傷事件」としてとらえて、次の瞬間には理屈を見つけようとする。その行き着く先は大抵のところ、95年のオウム真理教による地下鉄サリン事件である。

 ただ――あまり博論で言ったことを表に出したくはないが――地下鉄サリン事件は決して「理由」の無い殺傷事件ではなかったと私は考えている。彼等は彼らなりの理屈、目標、理想とする社会があった。もちろん、それに共感するかはまったく別である。それに結果は恐ろしいほど陳腐で、唾棄すべきものだった。

 しかし、だからこそ、彼等の理屈というものにわたしはとりつかれてしまう。なぜなら、彼等の理屈は紛れもない、その時代、その社会の一部を反映したものだからだ。さらには、オウム真理教という存在は、95年以前の、戦後の日本社会の動向についても考える必要がある。オウム真理教は今もなお検討に値する対象であり、だからこそわたし以外の研究者たちにも取り上げられ続けている。

 しかしここで絶対に注意しておかなくてはならないのは、その事件は他の何者でもなく、その時代、その社会、その教団でなければ、おそらくはあり得なかった事件だったということだ。そしてより注意すべきなのは、オウム真理教は他の何者でもなく、地下鉄にのりあわせた「その人」を殺した、傷つけたという事実である。

 述べたように、事件を語ることは、必然的にその社会について語ることを必要とする。だからこそ、殺人事件はコメントしたり考えたりするのに値する。さらに誤解を恐れずに言うと、語る魅力があると言えるだろう。しかし、過度な一般化をしてしまえば、それは語ることそれ自体が目的となってしまう。そして、「その事件」について語ることの意味を喪失してしまう。その結果、それは事件そのものや、そして被害者をも、顔もない、固有性もない、単なる「事件」「被害者」として一般化することになりかねない。

 事件を語るなら、その事件の固有性に向き合って欲しい。他の事件と比べたり、安易に一般化するのではなく、まずその事件そのものを受け止めて欲しい。それが事件を語るものの債務であり、死者に対する最低限の礼儀ではないだろうか。わたしはそのように考える。

 相模原連続殺傷事件から3年、最首悟先生のような取り組みを目にすると、改めて頭が下がる。こうした加害者との向き合い方こそ、被害者の尊厳を守るものであると思う。自戒を込めて。


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