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随筆3 盆に思う

東京で仕事をはじめてから、盆に休暇が取れたことはなかった。
けれど今年は、たとえ忙しくても休暇を取ろうと決めていた。
家族に、特に祖母に、ようやく半年を迎えた娘を会わせてあげたいと思っていた。

帰省は叶わなかった。
地元の岐阜や愛知の、コロナに対する温度感は、緊急事態宣言に向かうあの頃の東京を感じさせたからだ。
家族(両親、弟、祖母)とは、zoomを通して、ささやかに近況を報告しあった。画面越しだけど、娘の姿を見て祖母はとても喜んでくれて、僕も嬉しくなった。

別日、(僕たちが引っ越しをしたことで)いまはご近所さんとなった妻の両親と食卓を囲んだ。
義父の69回目の誕生日だった。

会話の中で、ふと故人の話題になり、そういえば盆ってこういう日だったと、少しはっとした。

僕が子どもの頃はまだ、盆は正月くらい特別だった。
盆が近づくと、父方の祖母や父が率先して、家族総出で家の片づけや、庭の草むしり、仏壇の手入れ、墓の掃除などをやっていたものだ。
家には親戚が集い、宴会をした。
そんなことを義母に話したら、うちの新潟の田舎も昔はそうだったと笑った。

進歩そのものが悪とは思わない。時代の流れとともに、必要性が薄れた文化や風習は次第に風化し、形骸化し、あるいは消えてなくなる。しかし、人が大切な文化や風習だけでなく、精神性や動物性まで失ってしまっているのだとしたら、それは鈍化だ。

近頃、人類が行きすぎてしまっている気がしてならない。
資本や科学の神話に囚われ続けて突き進むのは、そろそろ止めにしないか。

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