ショートショート「ユリイカ」

ユリイカ

「おかしいな」
 教授はつぶやいた。
「そんなはずはないんだが」
 なにやら落ち着かないそぶりで自分の研究室の中を行き来してから、ため息とともに椅子に腰をおろした。ぎぃと椅子が鳴った。
 しばらくは何も考えられないといった茫然とした表情をしたまま、遠くを眺めるようなうつろな視線を宙にむけていた。
 研究室の中は書棚に入りきらない書物がうずたかく積み上げられ、今にも崩れ落ちそうに思われた。それらの本は専門書ゆえか分からないが、誰だか聞いたこともない著者による、一般の人は見たこともない書物ばかりだった。この研究室に初めて足を踏み入れた者は、まずその本の量に圧倒され、自然とその感情は教授の研究への熱意とまたその知識と教養に対する畏敬の念へと変わっていった。
 教授の頭の中では徐々に問題の焦点を絞りはじめ、やがてめまぐるしく回転を始めた。
「今回提出した論文のテーマである『1413年から1428年に問題となったドイツの小都市ハナウにおける商業同盟的役割の可能性並びにその商業同盟不成立の場合における水道業者組合に与える影響に関する部分的考察』、これはまだ誰も手を付けていない問題のはずだ。これが学術冊子に掲載されれば、私に対する見る目が変わることは間違いないんだが、それが学部内の審査で落とされるなんてことが…。
 テーマの新規性という基準は満たしているはずだから、あとは内容の信頼性と有用性…。信頼性に関しては助手に頼んで資料の出典、校正など細かいチェックを念入りにしたし、私も目を通したつもりだが…。
 有用性…。まったく、学問のなんたるかの分からない馬鹿な政治家のたわごとだ。金を出すから口もだすとは聞いてるこっちが恥ずかしくなる…。
 あと考えられるのは…」

 教授は鬱々として晴れない気分のまま家路についた。
 家の中に入ると廊下の明かりをつける。そして、キッチンの明かりもつけてから、風呂場に向かい浴槽の栓をする。すぐそばの壁のリモコンのボタンを押すと無機質な声がした。
 「オフロノジュンビヲハジメマス」

 教授は湯ぶねにつかりながら、浴槽からあふれるお湯をなにか面白いもののように見つめている。そうして一日の疲れがだんだん癒される気がして心地よくなってきても、のどにつかえた小骨のように論文のことが心に引っかかっていた。
 やがて、いい加減考えるのも飽きてきて目を閉じた。そして、そのままとりとめのない空想にでも沈んでいくかと思われた刹那、かっと目を見開いた。
「あれだな」
 教授はひらめいた。彼の知性と教養が『ユリイカ』と声にならない叫びをあげた。今までのどんな学問上の発見よりも興奮を覚え、体が小刻みに震え始めた。
「まさかあれを根に持ってこんな意地の悪い真似をするとは。ただ『おもしろそうですね…』と言っただけなのに…」

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