見出し画像

#50 普通の人になりたかった私の話


保育園の時、「おとなになったらなりたいもの」に、ふじんけいかんと書いた。ふじんけいかんさんの絵も描いた記憶がある。

5歳6歳どころか、その後だって婦人警官になりたいと思ったことなんてない。警察のお仕事をばかにしているわけじゃなくて、ケーキやさんとか、おはなやさんとか、周りの女の子たちがこぞって書いた定番の”なりたいもの”の中で、きらりと光るオリジナリティを出したかった。ただそれだけの理由だった。


人は、なりたいものになれるけど、なりたいと思ったものにしかなれない。それを深く実感したのは、本当に最近の事だ。

私は昔から、普通の人になりたかった。小さい頃からどこか周りとずれている、私は普通の人じゃない、そんな風に思っていた。
ここでいう普通の人とは、私よりも上の人、人と違うことに変な劣等感を抱かない人という意味だ。一般的な定義はともかく、私は「普通」になりたかった。ふじんけいかんなんて思ってもいない見栄を張るような子じゃなくて、いちごとクリームに囲まれた、エプロンの良く似合うケーキやさんに素直に憧れる女の子になりたかった。

女の子なのに、引き出しの中はぐちゃぐちゃで、気が付くとランドセルの中で折れたプリントが教科書の下に隠れている。給食用のナフキンはいつもしわくちゃで、ぼろぼろに乾いたコッペパンが机の中から出てくる。自宅の部屋は床が見えなくて、友達を呼ぶときは客間に通していた。そもそも家も中途半端に古くて、友達を呼ぶことすら年に数回しかなかった。

普通の人の入り口である普通の子になれなかった理由は、子どもを持った今ならわかる。私はあまりにも親から見てもらえなかった部分が多過ぎた。ランドセルの中も、しわくちゃのナフキンも、ほったらかしにされていたことの裏返しだった。
私の部屋には半分空っぽの洋服だんすがあったが、片付け方を知らない子どもに大きなたんすを与えたところで、突然部屋が綺麗になるわけがない。とは言え、母も母で悪気があったわけではない。それなりに自分のことが出来る(と思っていた)私について、手を貸す方法を知らなかっただけだ。それが後々大きな落とし穴になるとしても、その他で手一杯だった母にはどうしようもならなくなるまで見過ごすしかなかった。父は仕事でほとんど家にいなかった。


私が唯一劣等感を抱かなくて済んだのは勉強だった。私は同年代の子より、ものごとを覚えるのが少しだけ早かった。小学校のテストは大体90点以上だったし、体育を除けば通知表にはほとんど△がなかった。中学校に上がっても3年生の後半くらいまでは困ることがなくて、◎○△じゃなくなった通知表はほとんどが5か4。定期テストが返された時は、みんなみたいに点数を折って隠すこともしなかった。

勉強が出来たからと言って、それを誇りにしていたわけでもない。自分では秀才キャラだと思ったこともないし、母は点数が取れる子どもに対する適切な褒め方と伸ばし方を知らなかった。
小学校のテストなんて、みんな90点が取れるものと思っていた。実際、どのくらいが平均点だったか今でも知らない。だから勉強ができることで特別天狗になった記憶はないが、実際の振る舞いはほとんど覚えていない。もしかしたら、勉強ができることを鼻に掛けていると思っていたクラスメイトもいたかもしれない。

ただし、高校からは違った。努力なしで点数が取れたのは中学までで、高校生になるとまず数学の授業について行けなくなった。3年生になる頃には得意科目と苦手科目がはっきりと分かれたので、大学入試は数学と日本史を捨てて挑んだ。最初から滑り止めのような私の受験は安定のA判定で成功した。全くの余談だけど、その年は理科か何かで予想外の結果が起こり、当たり前のように合格すると思われていた私よりずっと成績の良い同級生が、何人も留年の道を選んだ。


私の中では、中学を卒業したら高校に行き、4年制の大学に行き、就職をして社会人になるのが普通の人だった。だから高校受験をして高校生になり、大学受験をして大学生になり、就職活動をして社会人になった。遠くから見るだけなら絵に描いたように順調な人生だった。大学の頃には考えられなかったけど、就職して恋人が出来ると、母親が長女の私を産んだ歳までには結婚して出産したいという思いが強くなった。だから私からアプローチして結婚して、母よりも1つ下の歳で子どもを産んだ。

こうして、私は私が望む「普通の人」の道を歩んだ。けれど、いつまでたっても、私が思うような「普通の人」になることは出来なかった。どうしてか。それは、私が見た目や肩書でしか「普通の人」を思い描けなかったからだ。


それなりの高校に行けば、自分が劣っているという気持ちは消えるものだと思っていた。大学に進学して一人暮らしすれば、地元で暮らしている私とは別人になれると思っていた。就職して社会人になれば、一人前の大人になれると思っていた。引っ越しを繰り返しても一向に部屋は綺麗にならないし、いつになっても自分が望むような人間にはなれなかった。いい大人と言われる歳になっても、劣等感と自意識のはざまで揺れ続けた。




母になって1年目、それまで見て見ぬ振りをしていたものごとのツケを一気に払うような出来事に見舞われた。ここで詳細を書けないことをどうか許してほしい。そのくらい、今でも簡単には書けない出来事だった。


その年の出来事は、はっきり覚えているようで、全然覚えていないかもしれない。出来るだけ淡々と暮らした。淡々と暮らしすぎて、ちょうど1年が経った頃におかしくなった。おかしくなって、やっと素直に泣けるようになった。悲しいのも度を超すと涙も出なくなるということを、身を持って体感した。

そこで憑き物が落ちたのか、年齢と共に丸くなっただけなのかはわからないけど、30歳を何年か過ぎた頃から段々と変わってきたことに後から気付いた。劣等感は消えないけれど、前ほど自分の事で落ち込まなくなった。必要以上に頭の中でものごとをこねくり回さなくなった。私が思っていた「普通の人」、自分を変に落としてへこんだりしない人に、少しずつ近づいていることを感じた。

それと同時に、突然、私は「普通の人」以上になれないことに気付いた。私の若い頃の目標は、子どもを授かるところまでで完結していた。既に自分で設定したゴールが目の前に来ていた。いや、もうテープを切ってしまった後かもしれない。


もちろん、人生は子どもを産んで終了じゃない。どんな親でいたいか、子どもに何をしてあげられる大人でいたいかということはいつもいつも考えている。でも子どもの人生は子どものものだ。私は私の人生を、人生のゴールを、もう一度設定し直さなければいけない。

なりたいものにはなってきた。名前で選んだとおどけた、学区で2番目に難しい高校にちゃんと自分の学力で入った。人がどう育つのかを知りたくて、子どもに関わる学部を選んだ。未熟なまま子どもに関わるのが怖くて、自分のために働くことを決めた。

大学の時、卒業前に後輩に頼まれて書いたプロフィールに「カリスマ店長になる」と書き残した。周りが教育関係に就職を定める中、全くの門外漢となることが恥ずかしくて、完全におふざけで書いただけの”将来の夢”だった。

その後がむしゃらに働いて、わずかな期間ではあったしカリスマに関しては甚だ疑問だけれど、たくさんの人に慕ってもらえる店長に本当になった。経験が足りず辛い思いもしたし、なりたかったかどうかは正直わからないけど、書いたとおりになった。それが、私にとっては重要だった。


なると決めたものに、ちゃんとなれていた。私が望んだ結果がいまだ。なら尚更、私の将来について、もっと考えなければいけない。


何になりたいか。どんな大人でいたいか。おばちゃんになってもおばあちゃんになっても、年齢不詳でいたい。見た目の話と言うよりも、中身の話。最新機器を使いこなし、ホットな話題は大体知っていて、全然年代が違う子に話が聞けるような、そんなひとがいい。

仕事についても、何が出来るか今以上に考えなきゃいけない。確かに、現代の女性はキャリアを積むのが難しい。けど、これから先の人生にお金がいるのは紛れもない事実。人生80年としたって、ようやく折り返し地点が見えて来たくらいの歳なのだ。娘にだって、出来る限りいつまでも元気な姿を見せていたい。何歳になったからもうあれもこれももできないわ、なんて口ぐせのように言うおばちゃん、おばあちゃんになりたくない。

書きなぐって書きなぐって、ようやく光が見えた。普通の人になりたかった小さな私が、ちょっと大人びた顔をしながら、静かに笑っている気がした。



娘は6歳になった。幼稚園の先生に何になりたいかと聞かれてケーキやさんと答えた娘は、多分ケーキ屋さんにはならないだろう。ふじんけいかんなんて言葉は、きっと知らない。

君には、私がこもっていたような殻の中にはどうか入らないでほしい。私の見ることのなかった素敵な風景を、私の分まで見てほしい。私と、私の中の小さな私の分まで。

決めた。決めたよ。私の将来の夢は、娘がすこやかに育つための親になること。そして、素敵なおばあちゃんになること。まだ全然具体的じゃないけど、今はこれでいい。普通の人になりたかった私の、第二の目標だ。


ひたすら書きなぐっただけの長い文章を、ここまで読んでくれてありがとう。最近はこんな感じで、小さな荷物をひとつずつひとつずつ降ろしながら生きています。読んでくれたあなたに、なにかいいことが起こりますように。

いただいたサポートは、私のおやつ代になります。ありがとうございます。