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2 思考という営みを、純度高く、自由に

 渋谷区アゴラは、人々が対話、議論、思考する場だ。ここでは、誰かに対して言葉を発するまでの障害は限りなくゼロであり、またそうあるべきとされている。言葉に対して言葉で返し、対話の中にある対象を見つめ考える。対話や議論、思考という営みを、純度高く、自由に、ただその通りに行おうと試み続けている。
 五年前、それまではシャッター商店街となっていた三枡商店街が、渋谷区アゴラと呼ばれるエリアへと姿を変えた。運営企業のN社は、それまでに商店街組合を含む関係者らと話し合いを重ね、世の流れや考えを共有し、共同で計画を練り、土地賃借等の契約内容を詰め、数年をかけて渋谷区アゴラ誕生を実現させた。
 N社の経営陣はK大学OBがほとんどを占め、その一人が中谷さんだ。
 渋谷区アゴラの構想は、大学で議論を交わしていたあの頃のあの空間で生み出された。中谷さんを中心に先輩たちによって計画が進められていったのだが、資金提供者となる人物や企業にアプローチをかけ始めたのも早く、学生であった中谷さんたちの働きに加え、教授の紹介やサークルの繋がりで知り合った人たちの力添えも大きかった。

 現在の渋谷区アゴラは、全長約三百メートルの元三枡商店街のメインストリートと、そこから伸びる小路のいくつかを含む。小路についても、興味を持ち理解を示した住民および是非渋谷区アゴラの一部にと提案した人たち、そして土地を持つ自治体らとの交渉によって、この五年間で獲得されていった。アゴラ内には、N社が始めた店とN社が買収した三枡商店街時代から続く店、そして出資者が経営する店がある。主にはアゴラ利用者に対する売上とオンラインストアでの売上があり、N社が運営している店の収益は土地所有者に還元される。アゴラに通じる道とメインストリートの両端にはゲートが設置されており、会員以外はアゴラ内に立ち入ることができない。
 ゲートを通るための個人用バーコードは会員登録により取得できる。会員登録には、本名や生年月日、住所といった個人情報や、学歴や経歴、勤め先や職業の提出が必須であり、月額料金が発生する。未成年の利用には、保護者と本人についての情報が必要となる。対話、議論、思考の純度を維持する仕組みが十分に確立していない今は、まだこうしたハードルによって利用者層が絞られている。

 商店街をゆっくり歩く。今日は暖かいからか、外のテーブル席やベンチで話をしているグループを多く見かける。「こんにちはー」とドーナツ専門店の前のベンチから言葉が飛んできたので、「こんにちはー」と返す。
 コロッケ屋の前を通り過ぎようとした時、店主の佐々木さんが顔を出し「よぉ、調子はどうだい?」と声をかけてきた。
「気持ち良い風があって、なんだか幸せな気分です」
「そうだ、今日みたいな日は、みんな外で集まるから良い。暖かくなると虫や動物が動き出すが、同じ生き物の人間もそうあるべきだな」佐々木さんはそう言って、はっはと笑った。
 佐々木さんは、この商店街で生まれ育った七十代の方だ。渋谷区アゴラができる前は、ここの二階で年金暮らしだった。昔は一階で精肉店を営み、カツやコロッケなどの揚げ物も売っていたそうだ。アゴラ開始とともに遊んでいた一階部分をN社に貸し出し、そしてN社に雇われる形でコロッケ屋を始めた。
「こうして働けて、若いもんといろんな話ができて幸せだな」と佐々木さんはよく口にする。三枡商店街には年金暮らしの住民も多かった。収入が増えることではなく、平坦な毎日に変化が訪れること、人との会話が増えることを理由に、渋谷区アゴラに協力した人も多いと聞く。
「すいませーん!」絵の具の匂いを纏った人がこちらに駆け寄ってきて、二つの絵を私たちに見せた。
「どっちのほうが人の温かみを感じますか?直感で!」
「んー、あたたかみ、私はこっちかな」
「どっちも不思議な絵だなぁ。そうだな、わしはこっちだな」
「ありがとうございます!」そう言って少し先のテーブルへ戻っていった。外見と雰囲気から判断するならば、美術関係の人たちが集まっているようだ。テーブルにたくさんの紙を広げて話をしている。こうした突発的で単発のやり取りも、渋谷区アゴラでは日常茶飯事だ。

 スマートフォンをポケットから取り出し、暗証番号を入力する。
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 アゴラのアプリ内のメッセージを確認する。
 [二時間半前に発信。和菓子屋鳴戸のPC部屋。現代映画で良かった演出。《終了》]
 [一時間半前に発信。シーシャカフェひなた。お墓は必要か。《終了》]
 [三十五分前発信。喫茶店フォルテ南側席。衆議院議員選挙について。]
 [三十分前に発信。中央広場三番席。中国語が話せる方、発音チェックのお願い。]
 [二十分前に発信。畑本書店前、子供が学校の話をしなくなったときの対応方法。]
 [五分前に発信。パン屋レオ横ベンチ。日本で『LGBTQ』という言葉は死語か。]

「佐々木さん、コロッケ六個入を一つください」
「おうよ、ちょっと待っとれ」
 佐々木さんからコロッケの入ったパックとお手拭きを受け取り、代金を渡す。
「レオさんのほうへ行ってきます」そう言って私は歩き出した。


#渋谷区アゴラ
#思い出

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