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自由と向上

前回から少し間が空いてしまいましたが、引き続き人生の意味と目的について考察していきたいと思います。世間ではコロナウィルスが連日報道され、実際のリスクよりも恐怖を煽るような風潮にありますが、このような時こそ物事を考えることが重要だと思います。現代社会は便利で豊かではありますが、さまざまな情報や感情を揺さぶる事象が我々の思考を占拠してしまい、何かについてゆっくりと考え吟味することを難しくしてしまっていると考えてなりません。

このノートでは安岡先生の論じている造化と自由の関係を考察し、そしてそれが今の生き方にどう当てはまるかを考えていきます。

絶対自慊と永久不慊

安岡先生の本には読めない漢字がたくさん出てきて心をくじかれることが多いのですが、この「慊」と書いてけん、あきたりない、と読む字もその一つです。そしてここで出てくる自慊とは自ら満足させる、自分で達成しようとするということ。反対に不慊は決して自らに満足することがないということです。

ではこれがどう関係してくるかというと、本の中で安岡先生は、造化、つまり自然は絶対自慊で永久不慊であると論じているのです。考えてみれば自然は常に生成化育を繰り返していて、天体の運行なども止まるところを知りません。動物の本能にしても、種の繁栄という道にしたがってその努力を惜しまず止めることがありません。

自慊と自由

人間についてもこれと同じで、本来は自分の力で生きているもの、これを東洋的な自由と論じています。そして人はただの人という物の生活から道の生活へと無限に進み、向上するべきものであると述べています。

つまりは努力による道の実現が自由であるということです。自分で、誰からも言われずに、進んで誠の道を突き進む。他人にとやかく言われたり、流行にすがって目的を失ったりと、道から外れがちな現代ですが昭和2年に書かれたことがいまだに通用すると考えると奥深いものがあります。

もちろん他人の迷惑を顧みずに自由だといって、やりたい放題するのではありません。そういった風な自由とは西洋風な自由に近いもので、これは抑圧や苦痛、束縛などからの開放を意味する freedom や liberty なのです。辞書の定義で見ても、

freedom: the power or right to act, speak, or think as one wants without hindrance or restraint
liberty: the state of being free within society from oppressive restrictions imposed by authority on one's way of life

また両者の違いは

freedom は誰からも妨害されずに個人の意向に従って行動する自由をいう。 liberty はより硬く、拘束や幽閉などからの自由、許可や権限に囚われない自由について述べる際に好まれる。

とあり、リベラリズム、自由主義となり、制限を受けずにやりたいことをする。資本主義と相まってお金があればなんでもできるというふうに思われているものです。

もちろん私も人間なので、アメリカ人を見ていて、その豪華な暮らしぶりや自由を満喫している姿は時に羨ましくも思います。今では大麻ですら合法化され、自由の権利に組み込まれてしまっています。当然、薬物中毒になって死ぬのも個人の自由なのです。それが毎年7万人以上もの方が薬物中毒で亡くなってしまう国で起きていることです。最近ではエプスタインというメディアを所持するほどの億万長者が、自身の保有していた小島で仲間の富豪たちと若い女性たちとを集めて欲望の赴くままに過ごしていたのですが、ついに訴えられてしまい、留置所の中で自殺を遂げるという最後を迎えました。日本でも和歌山の富豪が最後は薬物中毒で、これは自殺か他殺かは分かりませんが亡くなっています。

こういった姿を見ている時、果たしてそのような最後がふさわしかったのか、自分もそのようになりたいかと聞かれると私は確証が持てません。もちろんこれらの富豪の方々は、恐ろしいほどのリスクをとり、幸運に恵まれ、血のにじむような努力をしたからこそ富豪になれたはずで、本来であれば尊敬されるべき人たちのはずです。死んでしまったあとは意識がないのだから、本人がどのような死に方をしようと他人には関係ないと言われてしまえば仕方ないですが、それでも凄惨な死に方を見聞きするのは残された人たちに影響することは確かです。

こういった他人への影響を考えると、SNSやメディアの発達した現代ではこれらの影響力は以前よりも増していますから、ますます手本となるような生き方、誠の道を生きるということが重要になっているのではないでしょうか。せっかく東洋に生まれ、過去の偉人たちが薬物中毒にならないで尊厳を保つ道を示してくれているのだから実践してみる価値があるのではないでしょうか。

もちろん私も一端の人間なので欲望にまみれ、道を踏み外すことだらけで、酒に溺れたり、現実から逃避したりとお手本になるなど程遠い話です。それでも歩くべき道を見つけることができたというだけでも、眠りから覚めることができたと感じます。最初から完璧な人は少なく、人生とは理想の自覚、現実の認識、そして実践による理想の実現ですから悲観はしていません。

安岡先生の自慊、無限の向上のための努力。生き方を見失いがちな現代における一つの道標ではないでしょうか。

これからも安岡先生の議論、見聞きした事象を元に人生の意味を考察していきます。

駄文をここまで読んでくださりありがとうございました。お時間が許すなら批判でも炎上でも構いませんのでコメントをお願いいたします。

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