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私と英語の出合いと挫折

子供時代から英語に触れていたといいましたが、今の子供たちのように小学校で英語の授業はありませんでした。
私は、英語教育に関しては、当時にしては恵まれていたかと。
でも、今思えばもったいないことをしたと思っています。

やっぱり言語学習は小さいうちから、ちゃんと←ここ大事
ちゃんとやっておきたかった!!
そんな後悔を公開します(笑)

おそらくご参考にはなりませんが、どうぞ、あしからず。


1. お風呂で英単語の暗唱

小さい頃はママとお風呂に入っていました。
(うちは「パパ」「ママ」呼びです。大人の今でもですが、何か?(笑))

我が家の裏手にある家からは、「毎日お風呂楽しそうね」って言われるほど、笑いながら入浴していました。
ところが、たまにパパと入る日が。
今なら大人の女性の事情もわかりますが、当時はなんでママとお風呂入れないの?ってすごく不満でした。

何故なら、パパは湯舟に浸かるときに、
溢れるお湯をみて「アルキメデスの原理」の説明をし出す人(理系男子)。

また、初期は日本語で1から10を数えてと定番な感じだったはずが、そのうち英語で数字(1~100まで、最終的には1000まで覚えさせられた)、今日・明日・明後日、曜日、月(1月~12月)だのを教えてきて、
その日のお題をちゃんと言えないとお湯から出してくれないのです。間違えたら初めから言い直し。

これ、小学校に入る前の話です。
ぶっちゃけ、パパと入るのはイヤでした。
そりゃあ楽しくないでしょ、今でいえば「苦行」(笑)
大人でも単語の暗記を時間縛りで強制されるのは辛いでしょ?

しかし、この単語暗唱苦行は中学で報われます。
まあ、アドバンテージになりました。ありがとう!パパ(今更)
でも、やり方はもっと考えたほうがいい。

2. 小学校入学から週1英語教室へ

個人の先生(H先生)が集会所で開いていた英語教室に通い始めました。
4つ年上の従姉が通っていたのがきっかけかも。

子供向けなので、そこでは小学校卒業まで面倒をみてもらい、
そのあとは同じ先生の元で、座学中心の塾形式になりましたが、高校卒業までお世話になりました。
私の英語のベースはこの教室で得たもので、学校で教わったことはあまり覚えていないかも(ごめんね、英語教諭の方々)。


ここでは定番の子供英語教室のように、カルタ的なものでゲームをしたり、歌を歌ったりしつつ、ネイティブの先生の後について発音したり、This is ~とかThere are~とかDo you~? Yes, I do.、Can you~?、I am~、Are you~?、It is~などもやりました。
そのとき、現在形とか主語とか、そういうことは全く習っていません。
文の形(作り方)と意味を覚えて話す形式ですね。


クラスの始まりは出席確認から。
名前を呼ばれたら”Present”、呼ばれた子がいなければ、みんなで”Absent”と返答。

当時は綴りもわかっていませんが、プレゼント🎁=出席??と困惑していました。
また、アブセントは欠席という意味だと思っていたので、中学以降に色々な意味を知ることになります。

1時間のクラスの最後には10分くらいで小テスト(リスニングして和訳を書く)が10問ありました。

小学校の入学直後だと、そもそもひらがなを書くのがやっとで、意味がわかっても時間内に書き終われず、結構悔しい思いをしました。
私は最年少、周りは小3以上だったので、めっちゃハンデが。

H先生は、私のテストの点数が悪くても、ちゃんと理解できていることに気づいてくれていて、ゆっくり書いていいよって言ってくれました。
わからなければ、「もう一度言ってください」 ”Once more, please." と言ってくれればいいと。
帰りに定型文のあいさつ "Good-bye, Mr.〇〇(Mrs. H). See you later. " と握手してバイバイ。
Repeat after me 的なこと以外、これしか英語を話してなかったなぁ。

ネイティブの先生
これがもったいないことをしたと思っているところ。
なぜこのとき、もっと積極的に話したりしなかったのか、と。
人見知りだったのと、下記の4.が敗因。

3. ネイティブの先生たち

6年間のうち、何人かネイティブの先生(横田基地の軍人さん)が変わったのですが、
最初のMr. スローンは白人の男性で、恐らく若くはなかったと思います。
彼も米軍の人だと思いますが、脚が悪かったイメージ。

当時の私は小1だったので、大きなおじさんだなって印象。
何せ大昔の記憶なので曖昧ですが、
ちょっと後ろ長めな七三分けの茶色い髪の毛に、眼鏡を掛けていて、青い瞳がきれいだったのを覚えています。
おそらく初めて見た外国人かも。
優しそうな人でした。


たしか1年しないくらいで、別のネイティブの先生に交代。でもあまり覚えていません。

その後、何人目かに来たMr. Williams。

当時、私はB classにいました。
C class → B class → A class とレベルが上がっていき、私は小3になるときにB classに昇級、小4で周りが小6のA classに上がりました。
教室ではいつも最年少。

Mr. Williamsは、私が初めてみた黒人の方で、この先生は確か20代後半。
元気で陽気な雰囲気で、映画で観ていた黒人のイメージ(エディ・マーフィとか)そのままです。
手のひらや唇のピンク色がきれいで、でも肌は黒くて不思議でした。
彼はバスケの選手で、ものすごく背が高く、手も足も大きかったです。横田基地に試合観戦にも行きました。

Mr. Williamsは最後にカード(ヘッダーの画像はその一部)もくれて、何十年も経った今でも手元に残っています。

あと、彼をよく覚えている理由は、
私は小学生ながら、「将来の夢は主婦、家でテレビを観て過ごす」といったら、叱ってくれたからです。
君にはもっと向いている仕事があるよ、って言っていました(もちろん英語)。
ニュースキャスターとか言ってたな、たしか。なぜ小学生にニュースキャスターとか言ってんのか謎(笑)

しかし、私は何で主婦がダメなのか、よくわからなかったのを覚えています。
当時の日本では、女性は主婦が基本だった時代ですから。
男女雇用機会均等法ができたか、できないかの頃ですよ。
アメリカではキャリアウーマンが当たり前だったんでしょう。


…あ、世代バレですね。

そういう考え方もJAPAN的に新鮮でしたね。

4. パパからの「知恵の実」

ここで、またパパの登場。
私は前述のように、ネイティブの先生の発音を真似て、英語の発音をしていました。自分が聞こえたように喋っていただけです。ジョン万次郎やPPAPと同じです(当時はそんなことは知りませんが)。



当時、「太陽戦隊サンバルカン」(世代バレ)という戦隊モノに、「バルイーグル」という隊員がいました。ちなみにレッドです。

―3人なのでサンバルカンだと思ってたが、太陽のSunなんじゃないか?もしかして。

また、そのあとに「イーグルサム」というアニメもやっていて(世代バレ)、鳥なのは知っていましたが、なんの種類かは分かっていませんでした。

それから、来たるロサンゼルスオリンピックのマスコットキャラクターがイーグルサムだと知ります。

ここまで、執拗に「イーグル」のことを書いていますが、私は ”eagle” = ワシ:鷲であることは知っていたのです。しかし、イーグル=ワシだと思っていませんでした。
そんなわけで、イーグルサムは何の鳥かわからなかったのです。



ある日、パパと近所を歩きながら話していたとき、イーグルサムの話が出て、イーグルが鷲だと教わります。

私:え、ワシは「”eagle”イーゴー」でしょ?
パパ:なあに? ”eagle”はイーゴーって聞こえてるのか、なるほどね(笑)
   じゃ、鉛筆は?
私:鉛筆はペンソー…ペンシルって言ってるじゃん、そういえば。

―なんかショックでした。ガーンって感じです。
築いてきた発音たちがガラガラと崩れてしまいました。

英語をカタカナに置き換えたひとたちの功罪だと思います。便利にしたけど、本来の発音から遠すぎた・・・。ローマ字もそう。
聞こえたように読むようにしてくれていたら・・・。


子供に知恵の実をあげないでほしかった!!パパよ!!

英語の発音は悪くなかったと思いますが、それから、英語を発音するのが怖くて、スピーチや音読は嫌いになりました。
だから、ネイティブの先生と話をすることに、めっちゃハードルが上がってしまったんです。

洋楽を人前で歌うのはいいんですけどね。歌は、それこそ聴こえたように発音しています。
今でも歌っているとき、発音がいいと言われるので、そもそも耳がよいんだと思いますが。

以上



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